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2012.07.31 Tuesday



ニコラス・ケイジのアカデミー主演男優賞受賞作。
「これで素面なの!?」と驚いてしまいます。
1995年作なのですが、大人になって見ると余計に胸に響くものが。
特にお酒飲みながら見たい。酒が進む進む。ウィスキー飲みながら氷の溶ける具合とともに見終わったらほろ酔いというのもいい。
今回やたら文章書くのが進むのは、私が酒好きだからです。

ニコラス・ケイジはアル中の役で、ラスベガスで酒を飲みまくり破滅一直線ですが、たまにふと見たくなります。
お酒の飲み方って人それぞれですが、わりと男性って孤独を胸に抱えながら飲むことって多くあるような気がします。
愚痴ってもしょうがないようなこと、いっぱい大人になると抱えますよね。
孤独な心の中に、いい女なんて現れたら口説きたくなる気持ち。
酔いながらまどろみに落ちていくような感覚。
誰かの柔らかな胸に抱かれながら。
男の憧れです。

お酒好きなら一度やってみたい。
好きな酒を満足するまで飲みたい。
アル中は映画見るとなりたくないなって思うこと間違いないですが博打と酒と女なんて三拍子揃っているじゃないですか。
私実はギャンブル苦手なので一切やらないんですけどね。

エリザベス・シューは娼婦の役ですが、こちらも孤独な道筋を辿ります。
「酒を飲むのを止めないでくれ」と頼む男に対し了承します。
風俗のお客でもいますが「話をして欲しい」という人が稀にいます。
性的な事は一切せず、お話だけして帰るのですね。
それだけ抱えきれないものや疎外感があって女の子に話を聞いてほしいというのは女の子のいる店ではよくあることなのですが風俗店でもあるというのは面白いですよね。
だいたい風俗嬢を店の外に連れ出したがるのはタダでできるから、という感情があったりしますが、ちゃんとニコラス・ケイジは存在を必要とし、エリザベス・シューも彼の存在を必要とします。

ニコラス・ケイジの場合はただ「居てくれ」でした。
居てくれるだけでいい、というのです。
家族にも見限られ、仕事も失い、アル中だしとなれば失うものなどあろうはずがないのですが、そこは人情。
寂しい気持ちってやっぱり抱くのですよね。
そこらへんの居酒屋にも酔っ払ったスケベなオヤジがいますけど、ひねくれたかまってちゃんであることは間違いありません。
女性から嫌われるのも織り込み済みなのでしょう。
寂しいんでしょうね。

救いようのない映画なのですけれど、この映画最初のあたりが「ん?」と思うところ。
インタビューされているような感じでエリザベス・シューが話し出します。
はて、誰に話しているのかは最後までわからないのですが、どうしようもない異性でも熱烈に惹かれあい心に残っているという経験のある人は「そういえば、あんなことが」なんて思い出深く浸ってしまうのではないでしょうか。
でも二度と関わりたくはないですけれどね。

救い難いお話を挿入歌が盛り上げてくれます。
お酒飲める人は好きなお酒片手に夜に観るのがお勧め。
アル中っぷりに引き込まれていきます。


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2012.07.31 Tuesday



「レオン」を見たことがある人はレストランにルイス役のダニー・アイエロが出てきた時点で「あれ、続き? おっさん出世したな」なんて錯覚してしまいます。
何かレストランにいる姿がしっくりくるのはどうしてでしょう。
飲食店に勤めたことのある人は、映画を見ながら厨房の戦争状態とかお客で混雑するフロアの様子とか実感としてわいてきます。
食べているほうは混雑時よく待たされたり次の料理が来なかったりオーダー通ってないなど、よく経験したことがあるのではないでしょうか。
我慢の限界が来ても食べるまでは帰れない苛立ちとかね。

この映画、脚本がよく出来ています。
レストランの厨房の戦争状態と掛け合わせながらシナリオを、ほとんどレストラン内のみで展開していくところ「密室」とまでは言いませんが、それに近いサスペンスになっています。
一体誰が一番料理しているのかということですよね。
カメラワークも抜群でちょっとしたドキュメントタッチの構図が展開していくのも臨場感満点。

エドアルド・バレリーニはルイスの子供ウールとしてレストランの料理長として扮しています。
父に店を譲って俺に任せてくれとせがみ、実際ウールの手腕で繁盛店へとのし上がっています。
しかし料理の味が気に入らない父。
味覚って難しいですよね。
それぞれ微妙な好みがあって、結構小さい頃に形作られたり、長年親しんだ味覚に引きずられたりします。
母親の手料理が美味しかったら、その味を求めがちになりますよね。
うちの家庭はシンプルな和食が多いのですが、香辛料など混ぜていくと、あまり好んだりしません。
わりと偏食していないつもりでも、好んで食べるものは皆さんあると思います。
その「好み」が色んな「偏見」に繋がりがちなのは皮肉な事ですが、オーナーも文句を言いながら、店の切り盛りを息子に任せている辺り、やはり一番柔軟な視野を持っているのでしょう。

それにしても日本ってかなりの料理が楽しめて、国も段々増えていっていますよね。
そしてすべて日本風にアレンジするので、現地の料理とはだいぶ違う場合があります。
これほど多国籍な料理を楽しめる国も、なかなかないのではないでしょうか。
安いお店だとなかなかありませんが、プロの技や味を守っているお店はたくさんあります。
ニューヨークもまたしかり。
野望を持った人たちがこの街で出店しては消えていきます。
この映画でも激戦区のニューヨークで繁盛しているレストランなのですから、相当おいしいのでしょう。

エドアルト・バレリーニが「料理人には二つの側面があって、ひとつは野性的な一面と創造的な一面だ」と言っていたような気がします。
獲得するための野性。創造のための柔軟さ。
料理を作ることもそうですが、創造を洗練させていくというのは、野性的な貪欲さがないと見えてこないし見識も鈍ります。
毎日食べないと生きていけませんし、毎日の欠かせぬ行為の中に新しい見識や想像を植えつけられるって奥が深いです。

レストランの日常の中に練りこまれたストーリーを入れアレンジしていく。
一見地味ですが、見終わってみると満腹度ありの映画です。


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2012.07.31 Tuesday



クリント・イーストウッド監督主演の映画ですが、今回で役者は辞めると発表しました。
以後は監督業に絞るそうです。
今回のイーストウッドは元朝鮮戦争従軍兵士として頑固で嫌味ったらしでへそ曲がりという三拍子揃った世界どこでも嫌われるというお爺さん役です。
子供は結構いい暮らししてそうなので、特に父とは積極的に関わらなくてもいいし、出来ることならば大人しく隠居してもらいたいって思っているタイプ。

この映画では人種による差別意識など出ますが、アメリカでは黄色人種は基本かなり下に見られます。
アメリカ人にとってチャイニーズもジャパニーズもコリアンも区別できませんからね。
モン族という日本では聞き慣れぬ民族でミャオ族とも言うそうですが、主に中国に多く住んでいてタイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどの山岳地帯にも同じ言語を話す民族が住んでいるそうです。
アイヌ民族と同じように文字を持たない口頭伝承で歴史を伝えてきたようですが、現在民族は世界各国に散らばっていて「グラン・トリノ」の舞台であるアメリカにも当然います。
近所にいてもおかしくないアジア系の顔です。

ところで「グラン・トリノ」って何? って思いますけれど、これフォード・トリノのうち、 1972年から1976年に生産された名称なのですね。
イーストウッド演じるウォルト・コワルスキーはフォード社の整備士だった人で息子はライバル企業のTOYOTAのセールスマンで車もTOYOTA。
車を見るだけで苛立つ父の雰囲気がよく伝わってきます。

どうして題名が車の名前なのか。
おまけコーナーでも映画スタッフたちが、ここぞとばかりに車好きさを語っていますが、結構自尊心の強い男性って「自分を象徴するアイテム」にこだわったりします。
それが時計だったり、カバン、スーツ、洋服、アクセサリー、車や家など、愛着の出てくるアイテムで自分をさりげなく表現しようとするのですね。
そのコワルスキーの化身がグラン・トリノというわけです。
特に車を愛している人にとって、ピカピカに磨ききって酒を飲みながらうっとりと眺めるという満足感はわかる人が多いのではないでしょうか。

隣人のモン族の子供をイーストウッドが助けたことによって、たちまち異文化に巻き込まれ英雄扱いされ、仕方なしに関わることになっていくのですが、思ったよりもハートフルな人たちに意固地な心が開いていきます。

私はまだこれを書いている段階ではお爺さんではないのですが、後先短くなった時、自分の色々な経験、こうなって欲しくはないという経験から何を残したがるのだろうなと考えされられました。
自分は辛い思いをした。だから若い人たちを老婆心から否定する。
最初イーストウッドも、こういう感覚なのですが、そうではなくなってきます。
否定するのではなく、積極的に、そして前向きに自分の体を張って伝えて残していこうとするのですね。

最初タオ青年たるビー・ヴァンのへなちょこっぷりというか苛められ役に理不尽な印象を持ったりしますが、この青年をこそ評価すべきだとするコワルスキーの気持ちを考えると感慨深いものがあります。
なにせ、最初なんか「この若造が!」という感じで自分よりも年下の人馬鹿にしまくりますからね。
嫁の葬式に出てくれた神父さんまで馬鹿にします。
でも最後には若い人に対してきちんと敬意を払うようになる。
ギャングに狙われるタオ青年を何とかして自由の身にしてやりたいと願う。
この心境の変化は何故なのか。
どんな心境の変化からそうなったのか。
最後に何を思ったのか。
暴力的な連鎖を止めるのに一番効果的な解決策は何か。
自分が何者かの暴力を目前にした時、いかなる行動をとるべきか。
とっさに浮かぶものじゃありませんし、みんな悩みますよね。
やっぱりみんな戸惑うものですが、どこかで止んで欲しいと願っていることは共通なのではないでしょうか。
暴力は傍観では止まらないけれど、的になったとき耐えるだけではいけない、従ってはいけない。
ならば反抗か。
どうすればいい。
自分に置き換えると、どうしても自分を犠牲にしないで解決する方法を選んでしまいますよね。

他人に「自由を与える」というのは、一世一代の勝負になるほど尊く重い行為であることがよくわかります。

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2012.07.31 Tuesday


挿入曲の「コーリング・ユー」が一躍有名になった映画なのですが、最初コメディー映画かと思うほどの出だしです。
ハリウッドの映画かと思いましたが西ドイツの映画でした。

太ったドイツ人女性が旦那に車から追い出され砂漠をさまよい、カフェ兼モーテル経営の黒人女性がイライラガミガミ怒ってばかりで旦那を追い出し泣いているところに泣いているドイツ人女性が来るという、最初「なんだこれ」って思ってしまうのですが、この太ったドイツ人女性のマリアンネ・ゼーゲブレヒトが最後にはとてもいい女に見えてきて、黒人女性のキャロル・クリスティン・ヒラリア・パウンダーの印象がガラリと変わります。
実はどちらも多才すぎる女性だったのだということがわかります。

お話の筋としては一人の異種の存在が来ることによって、殺伐としていた環境がみるみる変化していくという、今ではありがちなパターンなのですが、でも見ていると「え、そこまでやっちゃうの?」というところまでやってしまいます。
普通の神経じゃそこまでやろうなんて気が回りません。
色んなところが綺麗になっていくし、人もいっぱい来てにぎわっちゃうし、心まで丸くなっていくような気がいたしますが、周囲が砂漠地帯というのが余計にいい味を出しています。
これが緑豊かだったら少し印象が違っていたかも。

好意を示しても嫌悪で最初は返されます。
好意を持ち続けることをやめずにいると、段々と時間とともに嫌悪が薄れてきて理解を示すようになるのですね。
特に人間って理解するうえでの共通点がないと、なかなか理解の入り口すら通ってくれませんから、異種の価値観や思想を持っている人間には最初警戒と嫌悪から入るのが当然なのではないでしょうか。
特に男性はよくわかると思いますが、自分の散らかっていた部屋が突然綺麗に整理整頓されていたら、あまりよい気分はしないのではないでしょうか。

しかし心が苛立つのは自分の中に許せない感情があって、どうしても自己処理ができないでいるためであり、常に苛立っていたり怒っていたりする人は魅力的ではありませんし、その裏に涙や他人に理解されない気持ちがあったとしてもなかなか理解されるものではありません。
それでも愛してくれる人がいたとしたら、心から感謝しなければいけませんよね。
黒人の女性はブレンダ、ドイツ人女性はジャスミンという名前ですが、ブレンダの心の扉をノックし続けてくれるジャスミンは本当に女神のような女性です。

そして徐々に近づいていくことによって芽生えてくる様々な愛情やシャイな感情など、見終わって、久しぶりによい映画を観たとも感じます。
感動は押し付けられるものだとしらけますが、見終わってみるとじんわり来るというのがよいですね。
心の砂漠が潤った夕焼けに染まる様子が感じ取れますよ。


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2012.07.31 Tuesday


ジョニー・デップ主演の映画なのですが、既に題名からして「公共の敵」ですから、中身を少し見ればわかりますけれど銀行強盗たる彼らには好意的ではない題名です。
この題名は当時のFBI長官の指名から取ったのですね。
舞台は1933年、大恐慌時代になります。
昔の映画で同じようにジョン・デリンジャーを題材にした『デリンジャー』という映画もありますが、こちらはデリンジャーよりも、どちらかというと警官のパーヴィスの「正義の味方!」感が強く出ているような気がします。
しかも貫禄があり婚約者がいるにしては年を取り過ぎているような気もいたしました。
そして警官以外はみんな金にずる賢いです。
そこが一瞬コメディーにも見えてしまいますが、そんなものなのでしょうね。

ジョニー・デップの方はスタイリッシュに出来上がっていて、さすがマイケル・マン監督とも言うべき人物の表情の映し方が冴え渡っています。
今回、どうしてこの二つの映画を並べたのかというと当然見比べもあるのですが『デリンジャー』の方は、どちらかというと大恐慌の中でも好き勝手生きるならず者の風体が前面に出ています。
金持ちから金を奪っても悪くない。あいつら楽ばっかりしやがって。みたいな雰囲気が庶民から出ているのも特徴かなと思いました。
いつの時代もお金を持って悠々と暮らしている人間が酷い目に合うと、貧乏人はスカッとするのだということがよくわかりますね。
特に銀行のお金は盗っても、銀行にいる人間の財布には手をつけないところが、人々の憎しみを受けることを免れていたようです。
しかしまあ、アメリカって凄いね。
みんな銃持っているからやるかやられるかの世界。

大体悪役が出てくる映画で、悪役がバリバリと幅を利かせて最後には生き残るなんて映画は少ないほうだとわかるでしょうし、この映画は史実を元にしているので、どうなったかということは予想がつくだろうと思います。
『HEAT』の時もそうでしたが、マイケル・マン監督の作品には「短気を起こして爪弾きにされる悪党」が必ずいます。
短気は損気ですね。
『パブリック・エネミーズ』は愛に生きるデリンジャーの姿が映し出されています。

重要なのがデリンジャーの恋人のビリーです。どちらの映画にも当然出てきます。
女性の心理としてはどうなんでしょうね。
映画ではかっこいいから惚れるのでしょうが、実際には孤独な環境同士、心理的に意気投合したような気がしてきます。
インディアンの混血となると差別も少なからずあったでしょうし、ましてや大恐慌なので楽に生きてこれたとは思えません。
誰も私の理解者はいない。そんな孤独感は持っていたように思います。

題名は『パブリック・エネミーズ』ですが、追う側と追われる側を中立的に見ているので、追う側のパーヴィス役のクリスチャン・ベールも格好良く描かれています。
私はパーヴィスの心理のほうに興味を持ちました。
どうして最後、そうしてしまったのだろう。
それを考えるとパーヴィスはデリンジャーに好感を持ちすぎていたのかもしれません。
宿敵ではありますが、敵として愛していたのかもしれませんね。
敵に好感を抱く正義の味方って結構いますよね。
何故でしょう。真摯にぶつかり合う中で、分かり合える何らかの感情が出てくるのでしょうか。

『デリンジャー』のウォーレン・オーツは自尊心の塊ですが、『パブリック・エネミーズ』のジョニー・デップは度胸がありすぎるところを見せてくれます。
両者の共通点は「脆さ」でしょうか。
冷徹な感じは人情的な行動で緩和されてしまいます。
放っておけない男性とは、こんな人なのでしょうね。
二人とも気に入った女性を強引に奪っていくのは同じです。
魅力的な男性に身も心も奪われるというのは、そうありませんけれど、危ない匂いのする人に惚れてしまうと破滅が待っているというのはお決まりのようです。

テンポよく引き込んでくれる流れは、さすがの作り。
見比べるとより味が出てきます。


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