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2017.09.22 Friday
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2011.03.06 Sunday


第144回芥川賞受賞作品。
「苦役列車」を読んだら「あ、そういえば」と気になって、どうしようかなと思ったけど結局読むことに。
最初から先走って書くと、こんな様子が妄想できた。

「ねえ、今回『苦役列車』推したいんだけど、ちょっと生々しすぎる。この男子寮のむせ返るような酸っぱい男臭はなんとかできんものか」
「じゃあ、今回は2人にして、女性はどうでしょう。生々しいのを緩和するために、さっぱりしてて後味が口の中で溶けていくようなものがいいよね」
「あ、いい作品がありますよ。これにしましょうか。経歴とも申し分ないですよ」

なあんて、流れなんじゃないの?と勘繰りたくなる。
確かに「苦役列車」の中和剤としては充分だろう。
でも手ごたえを感じない。
というのはもちろん「生々しさ」や「リアリティ」ではない。

最初から順を追って話すと、まず「きことわ」って何?と疑問を持つのは当然だろう。
それで最初開いてわかる。
「ああ、主人公の名前を合体させたものね」と。
それで何で名前を一緒にしたのかという疑問もうっすらだがわかる。

正直に書くと読み終わってみて、私はこれが「少女が見る大人の夢」なのか「大人が見る少女の夢」なのか、区別がつかないところがあった。
というのは当然主人公の年齢は子持ちで中年に差し掛かるところであるとわかるのだが、そこには子持ちの主婦や女性たちが持っている生活における生々しさが一切ない。
それにこの作品だけかと思って他のも見たら同じだったので作者の意図したところだろうが、優しい漢字をあえて開いて表現している。
つまり「やさしいかんじをあえてひらいて表現」しているのだ。
ひらがなにしている。
テレビで聞いたときは「詩情」という言葉が出てきたけれど、この漢字の開き方における文章表現が「詩情」なのだろうか。

話が前後したが主人公描写に戻す。
ひとつだけ非常に感心したことがある。
それは「物への視点」だ。
男性はここまで事細かに物へ視点がいかない。
だいたい男性の視点になると「興味のあるもの」に隔たったりするが、女性視点は生活において存在する様々な物へ視点が移り、認識していく。
しかしとても残念なのは、まるでスーパーや百貨店に陳列される時に使われる「よくできた写真」のように綺麗過ぎて生活感がない。
たとえば野菜ひとつでも葉っぱがしなびていたり、綺麗そうに見えるトマトの一部分が傷んで食べられないほど味が変わっていたり、鍋についた小さな汚れ、洗い残し、作ったご飯の食べ残しなど、当然生活していれば汚れたものはたくさん出てくる。
この物への綺麗過ぎる描写が当然主人公たちの人生にまで及ぶのだから余計に「ふわー」と浮いたような気持ちになるだろう。
この作者の視点は、まるであたたかい昼ごろ、木漏れ日の中でうたたねをして、きらきらと揺れながら夢を見るような印象なのだ。
これは実際の子持ちの30代40代の主婦に聞いてみたいのだが、恐らく私と同じように「子持ちで生活しているような傷跡がない」という感想を持つのではないだろうか。
幼少期の体験が記憶の中のノスタルジーだと百歩譲って許せたとしてもだ。
まるで少女が大人の夢を見ているような感覚しか持たないのが一般読者の感想であろうと思う。
しかし、この書き方、この雰囲気、「ポスト江國香織」になるのではないだろうか、という予感はする。

そして問題の「詩情」についてだが、ちょっと疑問点がある。
詩というのは、ぶれないし、そして明確な視点を持っている。
しかしこの作品にはまどろんでいるような心地よさが全体的に漂っていて、まどろみの薄れてゆく視点の中に正確なピントあわせが存在する、というレベルまでは達していない。
ある人がこう言っていた。
「詩というのは書き始めた頃には完成している。啓示のような皮膚感覚を文字にしているだけなのだ」と。
私はこの言葉に同意する。
そして詩情とは読む側にも皮膚感覚における強烈なインパクトがなければいけない。
また萩原朔太郎もこう書いている。
「詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である」

確かにこの作品は、まるで両者がひとつになりたがり、若かった頃の肌をなであい、そのきめ細かさを確かめあっているような、その退行は赤子のもちりとした、つやつやした肌の質感まで戻るのではないのか、という印象すら抱かせる。
しかし、しかしですよ、ここで一つの違和感が出てくる。
「主人公たちの年齢と環境」だ。
多くの読者もこのギャップに違和感を感じるのではないかと思っている。
この話が少女の話で一貫されていたら非常に完成度の高い作品になったかもしれない。
少女の無垢な純粋性の結晶を描ききった名作になったかもしれない。
しかし大人はもっとどろどろしたものと向き合っている。
読書する時にその経験を重ね合わせてしまう。
この話では「現実逃避」にもなりがたいのだ。

この話はこの漢詩がぴったり似合う。

春眠暁を覚えず、
処処啼鳥を聞く、
夜来風雨の声、
花落つること知りぬ多少ぞ。
~「春暁」 孟浩然~

とにかく視点はある。
踏み込み方が甘いだけの話であって、これからの成長に大いに期待するべきではないだろうか。
と、偉そうに書いたところで今回の感想おしまい。

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2011.02.25 Friday


第144回芥川賞受賞作品。
ということで、一方の朝吹真理子とは違い、やたらとテレビに西村賢太の名前が出てくるし、ネットで共感する人多数、のような報道のされ方もするので、さていかなるものかと今更ながら読んでみました。

…久しぶりにぞっとする文章だった。
こりゃ凄いわ、というのが第一印象。
これをまともに読んだら本当にこっちまで鬱屈してきそうだし、一人の人間として見たら吐き気もすれば、こちらが持っている負の感情をあおられるようで読めない。
私は芥川賞受賞に対して「ああ、芥川賞ってまともだったんだ」とこれを読んで思った。
つまりいい意味で「ぞっと」させられた。

ある意味日本版「ファイトクラブ」のような男性的な暴力性を感じたし、「火の鳥鳳凰編」の我王を彷彿とさせられた。
というのは、この話は私小説とはあるが、作者の側から見れば当然「日記」ではない。
だから破天荒な人生を送ったからといって、この手の小説が書けるかといったらそうではなく、当然文才も必要だし、一歩引いて自らを事細かに観察する他人の視点がなければ書けるものではない。
通常人間は自分をモチーフにする時、必ずどこかで美化するが、これにはない。
ある意味達観した境地がある。
よく読めばこの話が意図されて編集されているのがよくわかるし、主人公にいたってはデフォルメした後にさらに戯画化されているのがよくわかる。
つまり題材は自分でも、その自分をいかに切り貼りしていけば、この手の人物像を戯画化できるのかという意図された小説だということがよくわかる。
それだけにここまで圧倒的な筆力でガツンガツンと掘り込んでいく、力任せの掘り込み方は、そう他の作家が簡単に持てるものではない。
それは自分自身のリアリティというものを戯画化しているからに他ならないからだ。

当然個人の立場から見ればこんな男とは友達にはなりたくない。
扱いに困るし劣等感に触れれば怒るし、卑屈を感じさせる対比があれば不機嫌になるし、このような人間が心底友達だと思えるのは自分よりやや酷い生活を送っているか、まったく同じような劣等感を持った憎しみと怒りと卑屈さの塊のような同種の人間とだけだ。
男性でさえこの手の人種は嫌な感じがするのに、女性が読んだら心底男性不信になると思う。
それに、本当に「男臭い」。
まるで衣服を脱ぎ散らかし、掃除もろくにされず、ゴミが散乱しているすえた臭いの部屋に入っていくかのような感覚だ。

この負のエネルギーたるや半端なく「美しいものをぶっ壊してやりたい」という昇華されぬ暴力性がとにかく生々しい。
そりゃあ男性だから自慰もすれば、アイドルかなんかの写真を見てしたり、劣等感があれば卑屈なエネルギーを爆発させて高飛車な女を犯し、顔に射精でもしたくなる、という妄想は一度はあるんじゃないのかなと思うがどうだろう。
映画の「ファイトクラブ」を見たときも感じたが、男性には得も知れぬ暴力性というものがあって、それを現代風に昇華している。
それが「仕事のできる」ことであったり「出世」だったり、何かを通しての「名誉」だったりする。
やたらと男性がそういうところにこだわったりするのは野生時代の狩猟本能を現代風に変化させているからだと思っている。
だから獲得していく充足感がないと、とことん腐っていくし、腐ったものに昇華されぬ暴力性が乗っかり余計にたちの悪いものになる。
女とよくしている男友達に嫉妬したり、何かと比べて俺だってこうなってもいいんじゃないかと勘違いしたり、うまくいかないことに苛立ちを覚えそれを抑えることなく他者にぶつけたり、となるわけだ。

また我王を思い出したのは、このダーティーヒーローは生きていこうとすればするほど、自らの過去が因果となって降りかかり、逃れようもない災難をこうむっていくという、結局は最後まで愛されぬ実力者になっていくのではないかと思ったからだ。
実際我王は鼻の薬を塗って懸命に愛してくれた女性を疑心暗鬼から切り捨ててしまう。

等身大の人間として読むと嫌悪感を催すのは当たり前。
でも、一歩引いて見ると、小さな、まことに小さな人間の、自らの痛みに耐え切れずのた打ち回り周囲を傷つけることしかできないこっけいな話ではないか。

この本、後半にもう一編ある。
『落ちぶれて袖に涙のふりかかる』という川端康成賞候補になった時の話だけれど、この作者としての劣等感、よくわかる。
「俺のほうが実力があるのに、なんでこんなやつが」という「俺だって頑張っているし、こいつはただ運がいいだけじゃないか」というね、この手のね、嫉妬心ね。
よくわかりますよ。ええ。
この手の嫉妬心を本当に臭ってくるようなものに乗せて書いてくるという、えげつないセンス。
いやあ、凄いものを読ませていただきました。


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