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書評・映画・コラムのサイト。本家ブログの転載も。
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2017.06.25 Sunday
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2017.03.03 Friday



とある人から「知り合いが直木賞を受賞したから読んでみてくれ」とあり、購入した。
「ちょっと前はぶらぶらしててさ」とか、「ペンネームも山東省からきているんだよ」と言っていたのでどんなものかと読んでみると、久しぶりに泥くさいような小説だと感じた。
若さの力というか暴力の力というか、随所に出てくる爆発的な力が主人公を突き動かしていて、中上健次の小説のような一触即発のピリピリした雰囲気が漂うが、文章は所々ユーモアや恋愛があったりして、最初の方で殺された祖父から「ミステリー小説なのかな」と身構えた気持ちが、すっと融解していった。
小説は実体験を元にしていて随分と変わった人生を歩んでいるなとも感じたけれど、結局はルーツを探す人生であり、「血」というものへの抗いがたい強き引力であり、自分は何者なのだという誰もが人生では一度は考えるような疑問を突き詰めたものだ。
ただ「血に関わる因縁」が人の深い罪や業に関わってくるとなると誰しも躊躇するようなものだけれど、運命なのか、見知らぬ力に導かれているのか、色んなことがすっと最後の瞬間に繋がってくる。
持って生まれた因縁が不幸を作ったり、意図しなかった道を作ったり、自分もよく感じることだけど、まるでバラバラで何も繋がらないかのようなことが、すっと一まとめになって目の前のイベントを作り上げていることを感じることがある。
受賞直後に購入して読み終わってはいたのだけど、ずっと感想を書くのを止めていた。
何か小説から突き上がってくる圧倒的な感情や暴力性に心が引きずられているのがよくわかったからだった。
いわば、読者の心を揺り動かす力が物凄く強い。
台湾、中国本土、日本と行き来するわけだけど、この舞台が日本だったら、もっと違った、陰気臭いような小説になったのかもしれないけど、そこは中国の広さというか、主人公の突き抜けた直情さと人間らしい生身の感情が色んなものと純粋にぶつかって昔のスポーツマンガのような爽快な感じさえ漂うところが、読んだ後も残り続けた。
蒋介石が亡くなった直後に祖父が殺されているため、当時の台湾の事情なども書かれていて、余計に泥と血が香っているけれど、私小説っぽい要素もあるため純文学としても読めるけれど、展開が破天荒なのでエンターテイメント感溢れる直木賞受賞は納得の一冊になっておりますよ。

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2017.01.23 Monday


久しぶりに目からうろこの読書体験をしました。
行動経済学という分野なのだけど、経済学というとマクロとかミクロとかグラフがあって計算式があってとか、そういう小難しいものは一切ない。
というより、むしろ心理学に近い分野かもしれない。
今まで物凄くもやもやしていた基本的な人間活動に対する疑問に明確な答えをくれた。

例えば私など無知なものだから、ちょろっと政治的、思想的発言をしようものなら、たまに批判が来る。
批判が来るのだったらよいのだけど、ネットの場合ほぼ罵倒形式で来るのだから何故なのだろうと思っていたし社会が硬直化しがちな思想を何故会社勤めの人たちはいつまでも持ち続けるのだろうと、ずっと不思議に思っていた。
まず「期待」や「予測」がいわば現実を脚色するということだ。ニュースで予め情報や印象を叩き込まれるのもそうだし、これが会社になれば共有している環境や未来が一緒なのだから、まるで社会全体がそのシステムで動いているように感じる。優良企業と言われているところが、何故か「潰れない安泰な会社」と思い込むのもそうだ。
それは同じ料理を高級な皿に盛って食べてもらうのと、貧相な皿に盛るのとでは美味しさや反応が大きく違ってくるのと同じだ。同じ料理なのに。事前に説明を受けた料理も評価が変わっていく。
でも料理の例と会社の例が同じだと言われてもピンと来ない心理が働く。
そして人は一度自分が価値のあるものを所有した時に思想だろうが物だろうが実際の価値より高く見積もる心理傾向があるという。
もうこの2つの話でピンと来た。
つまり社会や個人で持っている価値観をなかなか崩せないのは、この2つの心理効果が大きく働いているからだと理解できた。
ここまで説明されてしまうと社会の変革は共有意識を育てる前に心理トリックに近いメカニズムを生み出さなければいけないのではないかと思っている。

実生活に役立つことも書いている。
「プレゼントは現金がいいか、物がいいか」
現金を渡してしまうことによって何が起こるのか。
人間は金銭的規範と社会規範を両立できないことにも驚いた。
ただ今新たなる疑問は「会社経営とかだったらどうするんだろう」と思った。
安い給料はうんざりだし、なるべくお金は欲しい。
そこはもう少し違う分野や行動経済学の本を読まないといけない。

この本「不合理」と書いているが、普通に説明されれば理性的かつ論理的思考で「そんなことはない。非論理的だ」とか「よく考えればわかることじゃないか」ということが書いてある。
「何故タダが人気があるのか。タダのコストとは」
10ドル分のタダの券と7ドル払う20ドルタダの券ではタダの券が7ドル支払う券よりも人気があったとか。
ここでよく考えれば7ドル払うほうが13ドル、つまり10ドルをタダで手に入れるよりお得だとわかるにもかかわらず、圧倒的に無料で手に入るほうが選ばれる。
指摘されてみれば確かに、と思うけど、「あるある! 確かにそうやってる!」という不思議な、不合理な心理傾向が随分と書いてある。
「支払い」は「苦痛」なのだそうだ。
せっかく得たもの、自分のもの(お金)をあげなきゃいけない。
人は物を買う時、心理的障害があることがわかる。

自分ではかなり理性的な人間だと思い込んでいる人でさえ、そんなことはない。人類皆仲間みたいな感じが爽快だ。
この本を読めば、少しは無意識に行っている日常の思い当たるあの行動を自制する事ができるかもしれない。
逆の目で見れば、私のように「ああ、なるほど。この人にはこんな心理メカニズムが働いてるんだ」という気持ちで何かを許せるようになるかもしれないし、社会活動に生かしていこうと思えるかもしれない。
この本を応用すれば人への接し方が変わる。
社会へのアプローチの仕方が変わる。
企業戦略にホイホイと乗らないようになる。
実にいい本だ。
文体も読みやすく、久しぶりに楽しい時間を過ごせた本だった。

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2015.07.18 Saturday


書店に彼の本がいくつか並んでいたので手にとって読んでみると、だいぶ本作品では書きなれてきた感が出てきていた。
最初の一ページを読んだだけで、この人読書家なのかなと勘ぐり、知っている人に聞いてみたが、やはりそうだった。
文章を沢山読んでいて、小説を書く、この世界を書くという気持ちはよく伝わってくる。

内容は師弟関係になった芸人同士のやり取りがメインになる。
神谷という主人公徳永がほれ込み師匠とした人との人間模様なのだが、構成として面白いのは徳永が劣等感丸出しで神谷という存在を面白い、この人には追いつけないし、追い越せないと見ていたのが、実は結構似たような力関係で互いが成り立っている。
正直芸人じゃないと書けない内容だなと感じた。
というのも、読み手を意識してウケを狙うわけでもなく、つまらなさも面白さも含めて芸人同士でしか成り立たない会話。
芸人という立場でしかありえない、わけのわからない会話が次々と出てくる。
その淡々とした感じが日常性をさらに強調していたし、ここに少しでも意図的なものが出てくれば、作品としてかなり白けたものになったに違いない。
徳永の心情描写から透けて見えてくる神谷という人間の面白さ、裏を返せば滑稽さがよく表現されていて、昨今出版されている本で抱く「芸能人だから」という隔たったイメージは一切持たず好印象だった。
特に喜劇と悲劇は、ほとんど紙一重の領域にあるが、この作品はお笑いという視点を通し、紙一重のバランスを保っている。
芸の世界は見栄も張っていないと、なかなかやっていけないのかもしれないが、抱いた嫉妬や怒りや無力感や憧れというものは、当人たちの立場の移り変わりを見ていけば、充分に読み取れるし、芸に生きる人間の滑稽さは、よく出ていると感じた。
泥臭いだけに生々しく、「小説」というものは描けている、という感想だ。

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2015.04.02 Thursday



 題名の通り、声優の世界では有名な方が書いた声優の世界の本ですが、俳優とか、小説家とかにも言えるような内容で身につまされました、というか自分も思っていたことなのですが、私も「小説家になりたいんです」と言う人がいたら「やめなよ。真っ当に生きられるならそっちの方が絶対いいから」と言います。
 最近はボイスドラマなんぞを作るようになって、新人声優さんの音源や素人の方の音源を組み立てたりしているのですが、やはり才能の差というのはハッキリわかるものです。
 私が素直にダメなところを伝えると、だいたい素人の方には恨まれたりします。若い頃私も「自分は凄い」みたいな感覚があったので、よく思い出せば今の若い人たちの感覚もわからないまでもないのですが、なんせ私ネームバリューがまだ皆無なので、この方のようにハッキリ言うと恨まれることがかなり多く、「何言ってるんだ素人のくせに」のような辛辣な目を向けられ、挙句の果てには陰口を叩かれまくるという次第でございます。
 自分が仕事のできない人間だということが一番の原因ではありますが。

 さて、声優のことが書いてあるのですが、小説家も似たような事情に晒されています。唯一の違いは「自分で仕事を作れるかどうか」の違いがあります。
 小説家は自分で勝手に作れますが、役者はシナリオがないと役者にはなれない。厳しい世界だと思います。そして自分も最近になってようやく体に染み付いてきたことですが、こういうことをやる限りは、たとえ他人の車に引かれても仕事の面においては自己責任です。言い訳できません。それだけ身一つ、技術一つ、人間一つで勝負しなければいけないということです。
 ボイスドラマを作るようになって様々な素人や経験者や現役の人と触れ合う機会が多くなってきたのですが、「あー」と思い当たるふしが沢山書いてあり、特に素人の方で声優志望の人たちに多いのが「現実から乖離した夢を抱いている」ということと、何故かたいしたこともないのに「自尊心だけ強い」ということなんですよね。
 例えば大塚明夫と言えばアニメなどに興味のある人は代表作がポッと出るでしょう。本の帯に「メタルギアソリッド」というゲームの監督小島秀夫が「ボス」と書いてありますが、正直知らない人から見れば「ボスって何? だいぶ偉い人なのかな?」と勘違いしますし、ギリギリテレビを見まくっている人なら「セガールの声の人だよ」と言えば「あーっ」と引っかかる程度の有名さです。
 つまり、業界として既にニッチであり、そのニッチの中の有名人となると映画俳優とは比べ物にならないほどマイナーな役者ということになるでしょう。
 これが正常な見方だと思うのですが、どっぷり浸かっちゃっている人、それしか見てない人は、もう世界そのものがサブカル系に浸されていて、物凄く飛躍したイメージを抱いていることが多々あります。
 そしてその飛躍したイメージは自分に対しても向けられる。自分は主役を演じるのにふさわしい人間だとか、人気キャラを担当して伸び伸びと演じていて、見ている人が感動して、よかったです素敵です、だなんて言われる姿まで想像していたりします。よくわかります。自分もかつて、テレビに文化人として映ってチヤホヤされて、ちょっと格好のいいこと言っている自分みたいなのを想像していました。反吐が出るような思い上がりでした。
 この年になり、様々な経験をして鼻っ柱も折られまくって陥没し、自分の実力もよくわかるようになりました。才能ってなんだろうとか、才能がないんじゃないかとか、色々悩んで、自信満々の作品が落とされて、あまりにも情けなくて思わず母親の前で泣き崩れたこともありました。
 そして同じことをやっている人たちも少なからず見てきましたので最悪の末路も知っています。でもやめることができなかった。その時「書けなくなることが嫌なんだな」と思いました。自分の場合消去法ですが、どうしても最後に削れなくなる物がこれしかなかったし、そのために人生そのものをリスキーにしても別にかまわないと思いました。純粋に作品の精度と向き合うのが楽しい。そして私はまだ手段を沢山持っているし、頭の中のものを全て出し切ったわけでもないので、やめたら即人生後悔するわけです。
 私のことは沢山書く機会があるので、他の場所で致しますが、声を聞いていて思ったことは「上手い」と言われている人でも、どうもその人の中でテンプレートがあって、そのテンプレートを繰り返しているだけという人がいます。長い年月聞いてもいっこうに演技が変わらない。安定しているとも言えるのですが、人間味がまったく深まっていない。若くて上手い人が現れたら取って代わられる程度の実力。きっとその方ちやほさされるのが心底好きなんだろうことがよくわかるのですが、たぶん本人それを隠す。
 本にも書いてありましたが、こういう世界で自分に正直じゃない人って未来の方向性がハッキリしない。で、本当に厄介なのはプロでは食ってはいけないけど、素人よりは断然上手いっていう中途半端な人って、何故か妙なプライドを持っていて、文章の世界でも声の世界でも同じような状況が展開されていました。
 そういう人、素人を見て胡坐をかいているか、もしくは見下すか、どちらかが多かった。無駄にプライドが高くて完全に自分の成長を阻害している。自分の実力を客観視できないから必要な批判と必要ではない批判の区別ができない。もうここに至れない時点で才能がないと私などは思うようになりました。
 演技というのが何かはよくわからないのですが、少なくとも小説というものから見ると、才能があれば文章は年を取るごとに円熟味が増します。というのは様々な経験や人との繋がりから、優れたものもダメなものも自他共に見つけます。当然凄い目利きの人にケチョンケチョンに、立ち直れないほど言われることもあります。少なくとも私は深く傷つかなければ、ここまで気づくことはなかったのではないかと思います。でも、見ている限りプロになろうとしている人の中でもプロの目線から逃げ続ける人、圧倒的に多いと実感しています。
 そして少しでも自分の境遇を他人のせいにする人は、正直会社員生活のほうが絶対合ってますので、就職活動頑張ってくださいと心より応援させていただきます。だってこの世界本当にまともな人間が来るところじゃないんだもの。だからまともな人はまともな社会で暮らして欲しい。親とか親戚とか悲しませるしね。夢追ってて格好いいね、なんて云われるのは30歳まで。その前からも言われますが、その後は辛辣な言われようです。食えないってそういう言葉を言われてもしょうがないんです。
 あと、声真似する人多いですね。声を真似て演技を勉強するんだと言っている人ちらほらいるんですが、文章を書く立場から見たら「?」です。何故なら文章の世界で有名な人の文体や作り方真似ている人、新人にもなれないので。で、当たり前の話ですがプロだってぬるい見方しないです。「ああこいつ、この人の真似しているな」と思われたら即アウトオブ眼中です。何故なら、オリジナルは既に業界にいて稼いでいるわけです。劣化したものいると思います?
 学は真似ると言いますから、よい文章を模写するのは勉強になるとは言われますけど、参考にはなっても完全に役に立つかと言ったら「NO」です。理由は文章も体で書くわけで、私には私の心と体と精神があって、私自身のリズムがあるわけです。その感覚をガッチリと掴みながら、時には登場人物を演じるかのように懸命にその人のことを考えて、自分の文章のリズムを音楽でも作るかのようにパズルのように組み合わせ、物語全体を調節していく。つまり、この体を持っている、この心を持っている、だからこそ書けている文章であると実感するようになりました。結局自分からはどう足掻いても離れられないというのがいい意味でも悪い意味でも理解したことです。
 これを演技で言うならば、その人間と体の作りも心も違うのにコピーを試みても、結局違う体と心を持った自分の素の演技に磨きがかかるかと言ったら、どうも聞いている限りでは疑問です。絵の世界でも偽物は贋作と言いますけど、本当に勉強になるのは、寸分の狂いもなくコピーできた時だけです。偽札が偽物だとわかったら価値がないのと似てます。比喩でもしっくりこないのだったら、言います。真似ても、どう足掻いても自分出ていて、その自分をガン無視し続けているんです。それを目指すより、相手の演技を聞き入って、どう返すかを考えつくしたほうが、コピーするよりも近道だと思うのですけど。どうやったら、この演技に負けない演技ができるのか。返すのではない。圧倒するんだという意気込みでようやく成長できる気がします。
 憧れてしがみ付く人は多いですが、去る人も圧倒的に多いところです。特にちゃんと家庭を持とうとか、当然周囲もまともに社会人やっていれば出世していく姿を見ることでしょう。それと自分を比べて惨めな気持ちになったりすることもあります。正直病みます。それ気にならない人だけ出来るとも言えます。
 そして長年やり続けることで邪魔になる物があります。あくまで長年です。10年とか20年とかやり続けるためのコツ。自己顕示欲と承認欲求を捨て去ることです。兎にも角にも理不尽なところです。努力した見返りはほとんどありません。テスト勉強をするように点数が出ないし、人気にあやかろうと思ってもまず思い通りにいきません。そして今まで努力の見返りは何らかの形で点数なり評価なりわかりやすいシステムの中で分別されてきましたが、人間の理不尽さそのものの真っ只中に突っ込まれることになります。とてもじゃありませんが、存在意義など見出せないしあまりの見返りのなさに擦れてきて最後には病みます。で、自分は必要のない人間なのだとわけのわからないことを言い出し、他人を恨んだり孤独感に打ちのめされたり、精神を充足させる道としては本当に選択を誤っています。そこは著者と何一つ変わらない意見をずっと持ち続けていました。
 同業者だったら自分のこともっとわかってくれるはずだという幻想も捨てましょう。プロはもっと厳しいです。同業者は同業者だからこそ容赦しないと思います。そして傷つくからということで馴れ合いをしている人、成長しませんのでいずれ誰かにすっと抜かれていきます。最初からモチベーションも低いので数年で溶けるようにして消えていくんですけどね。これ、あくまでプロになろうとしている人の話しです。遊びでやっている人は、楽しいのが一番ですし、サークル仲間とわいわいやるというのは日々お仕事などでお疲れの人生の癒しの一つとなるでしょうし、そこはまったく否定しません。
 私が見ている限り、本当に好きな人は自分で自分の欠点を見抜いて、誰に言われなくても勝手にやってます。好きってことは、ある意味オタク視点というのが出てきて、細部にこだわりだすし細部が気になりだすし、出来ていないのも気になりだすし、そこをできるようにするのが楽しいし、スキルアップしていった先の世界というものを見ていたり、自分への客観性を超えてシニカルさもあるような目で自分を捉えます。だから決して何かのせいにしないんですね。自分で失敗しているってわかっているから。だから勝手にやって勝手に直す。立派です。本当に尊敬できるタイプです。そしてその手のタイプ、超グングン伸びます。びっくりするほど。
 今声も出していますけど、気持ちは小説を書いている時とあまり変わりがなくて、声も出しているのとても楽しいし、出せば出すほど打ちのめされているし、課題が沢山あるって楽しいです。小説ももちろん。
 私はとにかく満足したい。あー、これよかったなー、と心底言ってみたい。こりゃすげぇ、とぞっとするものを創って見せたい。私は小説を書いているので、とにかく人間を見つめている。自分が演じることで動く心の細部を通しながら他人の存在をもっと別の角度から新しく発見したい。
 私は極端な例をいつも考えています。本当に大事なものを犠牲にしてでも、これをやり続けられるか、ということです。実際それに似たような経験もしたし、体験としては結構充分な域まで行きました。
 自分の人生捧げられますか? 他人から心底酷いこと言われても、これやれますか? 本当に凄い人とやり合って太刀打ちできるだけの自信つけられるようにしていますか?

 結構長く書いてしまったし、著作に書いてある内容とほとんどかぶりますけど、自分もずっと思ってきた内容だけに、自分もまとめてみることにしました。
 自分にとってはとてもいい本でした。

  私からアドバイスできることは、この本には今すぐにでもできるノウハウが沢山詰まっている。本当に覚悟があるのなら今すぐにでもやるべきだ。勇気があれば大胆な行動も取れるはず。迷っている暇はない。

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2014.06.28 Saturday



 先日NHKのニュースで出たことを知り、完成版とのことで第四章が追加されて40年ぶりにお目見えとのことで急いで書店に行き購入した。この本を最初に読んだのは確か20代後半だったような気がする。
 題名からは、なんか動物ものだから、ほのぼのしてる童話か何かじゃないか? だなんて思っていたら違いました。悟りの書みたくなってる。
 というのもジョナサンは「飛行」や「スピード」をひたすら追求するカモメになっていく。一つ芸を追及することによって単に「生きる」ことに必要な「餌をとり生活していく」という次元からはるかに別の価値観を得ていくことになるのだが、それだけにカモメの群れから追放されてしまう。
 その一芸を追求するという行為の先に肉体をも超えて行き開眼する様は「これはいかにすれば悟りを得られるのか」を書いた小説なのではないかと、当時は思っていた。一つの世界を純粋に練り上げ純度を高め、目で物を見るのではなく、世界と一体となった心の目で時空を見渡す。確かにここまでいってしまうとそれは「カモメ」とは呼べない存在になってしまう。
 ニュースでも言っていたが、肝心の第四章は、第三章で終わっていれば「ああめでたしめでたし」という印象しか持たなかったものが、ジョナサンがいなくなり神格化され、行為から思考へ切り替わり、思考のために思考を練り上げ、思考を植えつけるための約束事やしたきりまで出始めるという、ニュースでは「堕落」と言っていたが所謂「現実不在の堕落思考の様相」が描かれている。
 ほとんど全ての言葉というのは「行為」を中心にし、体の中のリアリティを通して発信されているはずだ。さもなければ、個人にとってそれは単なる「情報」でしかなく、体験談でも得た知恵でもなんでもないのだ。知識を得て体験もせぬまま情報レベルでそのまま井戸端で噂話をするかのように語る人間はたくさんいるが、常に情報のオリジナルであり続けることは難しい。
 何故なら現代は情報が溢れていて、さも体験したかのように緻密に脳内に情報を蓄積することができるからだ。だから、我々は知らないことでさえ情報を共有して知った気になっている。
 そして情報を我々が確かに身近なものとして共有している、現実のものであるとするにはシンボルが必要になる。何か象徴的な形となるものが必要になってくるのだ。だから我々が思考を停止させる時必ずキーワードで話し出す。そのキーワードが何を示すのか、というのは、象徴物に印象付けられたイメージや先入観からしか考えられなくなる。
 そして行為は歪められ、思考は堕落していくのだ。
 これは別段難しい話ではないのだ。行為によって出しかオリジナルの情報は手に入れられない。知識は知恵にならないし、情報が真実かどうかも確かめることはできないのだ。世界を見つめることは、歪んだ心を捨て去り自由を得る必要がある。心の中からしがらみを取り去る必要があるが、いかに自由になったとしても自由になろうとしても、しがらみや群れを求めだすのが人なのかもしれない。
 この小説は多様な捉え方がある。経済には「神の見えざる手」があるというが、人間社会にも荒む時期や栄光の時期が繰り返されている。それはきっと個人の利益を考える人間の腐敗であったり、はたまたその腐敗に対する反発的な意思で利益を考えたりの繰り返しなのかもしれないとも考えさせられる。
 しかし我々の社会がどうあれば健全でありうるか、という議論はしばしば「行為」によって変えられるのではなく「情報」によってのみ歪められることが多々出てきている。
 第三章までの話は40年前。高度成長期の終わり頃で、その時期には第四章は時代に似つかわしくなかったとニュースで言っていた気がする。そして今になって第四章が追加されたわけだ。
 これは何の運命か何の因果か。あの頃二十歳で読んだとしても、もうその人は60ぐらいになっているはずだ。その人たちは何かを感じるのか、もしくはそういう長老たちよりもむしろ、今の若者にこそ再度問いかけているのではないのか。
 文章も簡単で一読の価値はある。ぜひお勧めしたい。

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