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2017.09.22 Friday
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2013.05.22 Wednesday




久しぶりに映画を見た。
そして、久しぶりによい映画を見た。
題材は「夢」なのだけど、実際は「深層意識」だ。
クリストファー・ノーラン監督というと、最近は「バットマンシリーズ」が有名だけれど、私がこの監督さんの作品を最初に見たのは『インソムニア』か『メメント』あたりだったと思う。
特に『メメント』に関しては10分間しか記憶を維持できなくなった男が妻殺しの犯人を追うというストーリーだけれど編集が10分毎に過去に逆行していくという一風変わった映画だった。
実験的と言うか、まあ、新しいことをやるのだから前衛的とも言えるし、他の人が撮らないような映像を作っていく印象がとても強い。

心理学については、専門的な知識はまだあまりなく、現代心理学がどこまでいっているのか知らない。
基本的には無意識の提唱をフロイトがし、夢に着目しだしたのはユング程度の大雑把な雑学程度でしかないのだけれど、この映画は深層心理を階層化していて、階層が進むほど目が覚めやすくなるという設定だった。
そして「心の中では世界を組み立てられる(例えば建物とか人とか)」が、「上の意識階層で起こっている物理的現象に下の階層が影響を受ける」という世界観だ。
実際面白いのが「無重力空間」というのがあった。
あれどうやったんだろう。
ワイヤーかな、なんてカンフーアクションのやつしか思い浮かばない。

他人の心の中に潜入するのだけれど、複数でも入れる。
しかも相手の心の中に入っていても、主人公の深層意識が影響してくるとか、より強いものは夢の中で具現化される。
この「インセプション」という題名、「inception=初め、発端」という意味がある。
つまり深層意識の発端となっている、基本的なその人間の「アイディア=idea=概念、思想、着想、思いつき、見解、理念」だ。
この「idea」という単語には日本語でパッとイメージするよりもたくさんの意味を内包している。
私たちは結構この深いところにある自らへの着想のようなものを根底にして人生を動かしている。
それは相当意識しなければわからないほど自然にやっているし、他人への見解も実は、この自分への思想が大きく影響している。
この映画ではトラウマの存在が夢の世界へ大きく影響していて、いわゆるトラウマというのは自分の意識では、そう簡単にはどうにかできない厄介なものだ。
トラウマは無意識領域に沈んでいて、どの階層でも出てくる。

私たちの心は自由に世界を構築できる。
それを具現化するには、現実世界でのあらゆる段階を経ていかなければ、なかなかなるようなものではないが、「設計」、つまり「心での具体的なビジョン」がなければ、具現化することは難しいし、さらには「具体的なビジョン」を維持し続けるだけのちょっとした訓練が必要になる。
そうしたいくつかの条件さえクリアできれば、現実で受けるあらゆる障害をはねのけて持続可能な意志を維持することが可能になる。
それはこの映画の中では深層意識の中に「理想世界」を築いていたため、夢と現実の境目がつかなくなるとか、夢の中に取り残された意識は虚無に陥って、二度と現実で動くことはできなくなるというものだった。

最近「心」のことをよく考えているので、この映画への発想は何度か見直して、もっと考えていきたいと思ったほどだ。
何せアクションシーン満載だし、タイムリミットありだし、エンターテイメント映画としてもよく楽しめる。
脚本ももちろん面白い。

深層心理は「錯視・錯覚」も存在しているし、それがたとえ「錯覚」だったとしても心は「本物」として捉える。
その心のトリックは自分で解いていかないといけないし、心の迷路は誰の中にもある。
心の迷路が永遠の葛藤や迷いにならないよう、私たちは辛いものと向き合わなければならない時だってある。

これは久しぶりにお気に入りの映画になった。
嬉しい限り。

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2012.10.05 Friday





塚本晋也監督作品。
ベネチア国際映画祭オリゾンティ部門大賞受賞ということで日本ではCoccoファンか塚本晋也ファンか映画好きしか興味を示さないのではないかという映画です。
なんででしょうね、いい映画なのに。
Coccoのドキュメンタリー映画を見たり、少しだけCoccoの知識があったりすると、これはドキュメンタリーなのではないか、というカメラワークになっております。
ドキュメンタリー映画『大丈夫であるように-Cocco 終らない旅-』を見た後だと「生きろ」というメッセージや「沖縄の言葉での歌」などが入ってくるので錯覚してしまうほどです。
Coccoが実際ライブで歌ったものも入っているそうです。
それに出演者の中には実姉や息子さんっぽい人も出てくるし、あまりにも彼女の演技が演技とはわからぬほど迫真に迫っているので本当か嘘かわからなくなるのです。

ちなみにオリゾンティ部門というのは前衛的な映画に贈られるものだそうで快挙なのですが、日本と海外との視点はやっぱり違いますね。
映像はショッキングと言えばショッキングです。
リストカットが出てきたり、グロテスクなシーンが出てきたりと、「見たくないもの」がたくさん出てきます。
内容はと言えば、ちょっと難しい。
ひねっているとも言えるし、素直だとも言える。
元ネタはCoccoの「両目を開けると物が二重に見える」など、本人からの体験談を通してシナリオを練ったらしいのですが、それをひねって、一人の人間を見ると、普通の人と暴力的な人の二つが同時に存在して見える、という主人公をCoccoが演じています。
途中で田中という小説家が出てくるのですが、塚本晋也本人です。
あの方「小説家」として出てくると、どこか村上春樹に似てませんか?
なんとなくひょうひょうとしているような雰囲気がうまかったです。

塚本監督は歪なものを通して、正常な二面性を映し出すのが非常にうまいですね。
今回の主人公は暴力的な人間と正常な人間が同時に見える母親が子供をどうやって守っていくかというお話なのですが、たぶん男性より母親のほうが本当にしっくりくるのではないのかなと思うのです。
というのは、子供を守る母親ってコミュニティから阻害されると子供の人間関係にも関わってくるわけだし、いつどのような危険が子供に訪れるかわからないし、子供にはよい未来を体験してもらいたいと必死になるのは、どこの親も一緒なのではないかと思うのです。
そんな母性というか守護観念のようなものが強くなると逆に潔癖症のような感じになってくる。
あの人は危険かもしれない、あれは信用できないかもしれない、とあらゆるものの「危険性」を考慮して見えない不安に付きまとわれることになります。
また力が弱い女性個人としても「危険」はあるわけですからね。
主人公はいつから二重に見えていたのか、というのは明かされませんが、もしかしたら離婚か離別かシングルになったことで精神的なショックを受けたとか、事故的なものか、生来のものか、毎日のように流れる殺人事件などのショッキングなニュースから膨らんでいったのかわかりませんが、普通の人間だってひょんなことから人間関係ガラガラと崩れたりするのですから、そんな体験多くすると「人間いつ裏切るかわからない」と普通は思うようになるはずです。
もし、この「二重に見える現象」が「人間が持っている本来の性質」だとしたら、「暴力的な人間像」というのは何かと言うと、「負の側面」であり「悲しみ」「辛さ」「痛み」「切望」「憎しみ」「恨み」なのかなと監督本人のコメントからも伺える。
そんな気持ちの集まりが個人間の争いから戦争まで起こしているのかなとは思いますが、この映画は個人とそして子供との間に生まれている大きな軋轢をいかにしたらいいかということが強く感じ取れるわけです。
例えば母親は子供が出来たら突然一度もしたことのない子育てをしなければいけない。
こうすればいいのか、これは危ないのか、どうしてこうならない、など子育てをしたことがある人は少なからず悩むものです。
こんな狂った世界ならもう生きている価値もないと理性のバランスを崩しかけることだってあるでしょう。
誰も助けてなどくれないのだと孤独感を強く抱いたりとか。
特にこの映画はCoccoの価値観や考え方を強く引き継いでいるということはドキュメンタリーを見ればよくわかるし、映画のセットもCoccoの自前のものが部屋に飾られているなど、まるで監督が彼女のために作った映画のようにも思えてきますけれど、海外の人などはそれがわからないわけで、純粋に何を示しているかを考察してきたのですが、小説家の田中は一体何者なのかという疑問が見終わった後に残りますよね。

私が一番映画の中でしっくりくる言葉はこれ。
「歌を歌っているときだけ一つに見える」

ということで、正視できないようなシーンがたくさん出てきますが、美しいシーンも凄く多い美術性の非常に高い映画であり、二人の人間の思考の交差点上に産まれたこの映画の示唆するものをゆっくりと考えてもよいかと思います。

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2012.10.04 Thursday



Coccoについては、あまり詳しく知らなかった。
シンガーソングライターで、拒食症を患っていた、というぐらいの知識だ。
どうして興味を持ったかというとこの後の映画で『KOTOKO』でベネチア映画祭オリゾンティ部門でグランプリを受賞したからだ。
この映像はドキュメンタリーだけれど、音楽活動を通してどんな視点を持っているのかというのがわかった。
ちなみに彼女が沖縄の人であるということも、この映像で初めてわかった。
沖縄の人間は基地問題と共にあり、毎日のように基地について考えている。
中で「阪神大震災の慰霊モニュメント」も出てくるし「六ヶ所村」のことも出てくる。
身内が働いていて給料を貰っていたら、どんなに村から離れていて関係なかったとしても何も言えない、ということを村の関係者の人が話していたのが印象深い。
Coccoはファンの手紙を貰って「六ヶ所村」のことを知り、そして沖縄の問題と重ねあわせて考えていた。
自分たちが生活を送っている裏で何らかの犠牲を背負っている人たちがいる。
特に都市圏に住んでいる人間はこの意識を持ちづらい。
かく言う私もずっと札幌に住んでいて、それなりの都会であるので、都市を維持するための労力は思い描くのが難しい。
原発の問題も基地の問題も、国家の裏でどういうやり取りがあってそうなっているのか民衆には理解しづらい部分があるし、「民意」と言ってもダイレクトに反映されているとは言いがたい。
「生活をするための、しょうがないこと」
こんな意識が取り巻いているのではないだろうか。
映像の中でもCoccoは絶望だけじゃなくて何とか前向きに生きようとしていると言っていた。

ふと他県に移って私も気がついたことがある。
地元以外の他県の情報は「東京の視点」でニュースになり、地元は「地元の視点」でニュースになる。つまり地元の問題は「東京では問題にならないこと」は外に出ていかず、地元に閉鎖的に情報が流される図式になっている。
Coccoが沖縄の問題は沖縄だけでたくさん流れている、というようなことを言っていた。
中にはジュゴンが海に帰ってきたというニュースが差し挟まれ、道民の私はそのニュースを映像の中で始めて見た。
このドキュメンタリー映像は、ほとんどCoccoのファンぐらいしか最初は興味を持たないかもしれないが、はっとさせられることがある。
それは「誰かの苦しみや悲しみを救おうとすることで自然とメッセージ性が出てくる」ということだ。
六ヶ所村から住む女性から手紙を貰ったCoccoが「助けてっていう手紙がほとんどだけど、この手紙には一言も助けてと書いていなかった」とあった。
このメッセージからもCoccoが祈りの対象のようなものであり、救いの神のような扱いをファンから受けているのではないかと思わされる。
さまざまな苦しみや痛みや悲しみに目をむけ、音楽を通してそれらを少しでも緩和できたらという気持ちが全編に流れている。

最後のほうに親としての視点があった。
一人でいたときと、親になったときの気持ちの変化が宮崎アニメ「もののけ姫」を通して語られていたのが面白かった。
守るものが出来ると、つまり後世のためのことを考え始めると、一人でいるときとはまったく視点が違ってくる。
絶望よりもなるべく希望を残していきたいし、共有したいという思いは誰にだってある。
しかし希望だけ並べ立てても現実は塩辛い。
なぜなら生きることそのものが何者かに犠牲を強いることだからだ。
この構図は人間が生物である限り変化しない。

全ての人間の苦しみを救うことは不可能だ。
だからこそ「終わらない旅」なのだろう。
彼女のファンではなくとも、何かと考えるところがあるしっかりとしたドキュメンタリーだった。

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2012.08.13 Monday



同名の小説から映画化された作品。
どうしてもこのような複数の人間模様を描いた作品の秀作として『BABEL』を思い浮かべてしまう。
小説が優れているだけに、脚本監督の力量が問われるが、少々長く、そして偏っている感じは否めなかった。
つまり「印象に残る配分」として中ごろに出てくる「虐待」が強く残ってしまい、他のものが小説抜きでは、ちょっとわかり辛い。
間接表現と直接表現の隔たりも目立つ。
映画は別物として小説とは切り離し、映画は映画の中で完結していなければいけないし、映画の中でヒントをすべて出しておくべきなのだ。
その点ではヒントが不足しすぎている。
ゆえに余韻不足だし完結し得ない。
そして多少長い。
もうちょっとだけコンパクトに出来たのではないかという印象が強く、「勇気を持ってギリギリまで削る」作業があれば、もっと優れた作品になったのではないかという印象すら持った。

原作がよい小説は小説のイメージに読み手は強く引きずられる。
それは脚本家であっても同様なのだが、原作をすべて映画で表現することは当然不可能だからピックアップしてオムニバス形式にしたのだろう。
しかし何故これを選んだのかということと、そしてそこから得たものを脚本家はどうしてこう編集したのかという意図が、「小説ありき」の映画になっていて惜しいのだ。
そして原作をちょっと変えてしまったことによって、原作の方が遥かに優れている点が多く出てきてしまった。
暖かい感じが冷たくなってしまったり、人情あるものが虚しいものになっていたり、演出上逆効果になってしまったものがいくつかあった。
ラスト間近ではいいカットがあった。
原作のある映画は原作を超えられないというジンクスを抱いているのだとしたら、それはNOだと言いたい。
映画には映画のよさがあるし、小説には小説のよさがある。
それぞれ表わせないものがあるだけに、映画で補えないものの延長線として小説があるわけではないし、またその逆でもない。

言われなければわからないのだが、映画のキャスティングに地元の人を使っている。
加瀬亮の奥さん役、虐待するいやらしい母親役の東野智美、その息子役の信山紘希はいずれも素人で作品の演出上非常に目立っていた。
知ると驚き。市電の運転手だって素人だというのだから、皆自然すぎて本職の役者かと思うほど。
現場の人たちはついつい思い入れが強くなってしまうし、映画スタッフだって、せっかくこうして努力してくださるのだから無駄にしたくないという思いは強くなるが編集は心を鬼にしてやらなければできないと思うのです。
映画は時間の芸術だけに難しい。

低予算で仕上げた映画で16mmで撮り仕上げに35mmに戻し、上映時にはデジタルに戻すなどフィルムを使って撮っているという。
淡い雰囲気が出ていて非常によかった。
景色は本当に綺麗。初日の出なんて、24時にロープウェイが止まるから朝動くまで山頂に軟禁状態とか、苦労話を聞くと映画の見方が変わるけれど、それは映画とは別腹にしないと面白くないんです。
こういう話は「デザート」であって、コース料理の締めくくりとしてよくなってくる。
メインデッシュの味付けが一番よくなければデザートはよかったよね、になる。

一言最後に締めくくるならば、惜しい。
いい映画なだけに、凄く惜しいです。

しかし、
・函館生まれの作家による、函館をモデルにした小説を、函館ロケで映画にする。
・今の函館の町並みを映像として記録し、後世への記憶に残す。
・市民参加の映画づくり。映画づくりという大きな目標を掲げた自主的活動が、町に活力をもたらし、文化活動の新しい形を生み出してゆく。
という映画化への目的は達成されたであろうから、充分とも言えるかもしれませんね。

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2012.08.13 Monday



作者はこの小説を未完にして自殺した。
ゆえに様々な「もしかして」が思い浮かぶ。
内容は「海炭市」という架空の都市に住まう人々が各短編の主人公となり、冬から始まり夏あたりで止まっている。
第一章第二章とあり、つまりは冬と春だ。
20年も前の作品だが、渋い。
小説らしい小説といえばいいのだろうか、今のエンターテイメント志向の小説とは違って市井の様々な年代の人間の生活を細かに描写している。
きちんと人間模様が描かれているが、このような架空の都市を作り出して様々な人間を主人公としている作家の一人に時代小説家だが「海坂藩」を描いた藤沢周平がいる。

どこをモチーフにしているか明かされなくとも、北国らしいということがわかるし、特に路面電車が出てくるので絞込みは容易に済む。
電車はどこにでもあっても、少ないのが路面電車と地下鉄とモノレールとトロッコだ。
この四つの電車のどれかが出てくる小説はモチーフとしている場所が絞りやすい。
もったいぶることもないので書くがモチーフとしている都市は函館市だ。

通常、北国の人間は最初は無口、打ち解けると喋り出す、というイメージがある。
雪国ならではの極寒で耐えしのぎ、吹雪の中でひたすら凍えながら立ちすくみ我慢するような、そんな雪のイメージが付きまとうからだろう。

私が鹿児島に行った時にも言っていたが都市部の人間において、地方特色の人間の癖というのはなくなってきている。
というのは、若い人たちが入ってきて、都市をとった人たちが亡くなっていくことにより、都市部では中和されてきているというのだ。
私は札幌に住んでいるが、他の都市部と比べて何が違うのか、人の面で言えと言われれば少し困るところがある。
注意深く探さなければ見えてこない。
環境によって生まれてくる人と考え。
それが生活なのだろうし、それが都市の特色、市井の人の癖なのかもしれない。

『海炭市叙景』では仕事に就き、そしてその仕事を背景にして物語が進むことが多い。
もちろん仕事は生活の一部であるし、人生を支える大事な点であり、その人物のアイデンティティでもある。
生活をしっかりと文章の中に練りこみ小説に盛り込む視点は、派手さがないが、地に足がついているだけに描写も難しい。
というのは、どうしてもしっかりと書いていかなければ生活の部分だけが描写として浮いてきてしまい話の筋にリンクせずに余計な分量として贅肉となる。
配分のバランスがきちんとしているから、違和感なく「生活する人」が生きている。

全体的に陰鬱、救われもしない、幸福とも言いがたい、曇り空のような雰囲気が漂う。
だが、「もしかしたら」という想像が生まれてくるのは、この小説が「未完」だからだ。
最初に違和感を持ったのが、出だしの二編で、事件を共有している。
しかし進むに連れて事件は共有されなくなってくる。特に二章目はまったくのバラバラの物語だ。
まだ夏と秋が残っていて、作者はその二つの季節、残り二章を書かずに亡くなった。
この夏と秋の二章に何を書くのか。
もしかしたら、前半の登場人物を脇役とさせ、話を救いのあるものにしたのかもしれない。
私がそう考えるのは、全編この調子では冗長過ぎてだれるからだ。
何のために小説を書き始めたのか、人の生活を書き始めたのか、きちんと考える作者だけに一辺倒では終わらなかったはずなのだ。
そして絶望もせず不幸だけでは終わらず、ささやかな幸福を願い、日々の小さな幸せを得ながら生きていこうとする人間の姿をよく理解しているだろうからだ。
書き方は非常にうまく、大人になってようやく、住まう人々の腰の座ったたたずまいが理解できるようになる。
中年ぐらいの方がようやくわかってくるような小説なのではないかと思う。

書き方がうまいと思うのは、タイトルのうまさ、締め方の秀逸さ、物の絶妙な使い方などがあげられる。
読み終わり、タイトルを見て考えさせられる。
なるほど、20年経っても根強いファンが2010年の映画化までこぎつけるほど残っているというのもうなづける。
この小学館から出た小説も長き時を経てここまで来ているのだから、作品の運命は皮肉だと感じるし、私が当人だったら、などとあれこれ考える。
無数の作品の中で、佐藤泰志のしかも『海炭市叙景』に出会える確立など、クジを引き当てるくらいになる。

今はエンターテイメントばかりの小説が溢れる中、小説らしい小説を残すのは非常に難しい。
ほとんどボランティアのような気持ちでやらなければならなくなる。
もしくは市町村をスポンサーにつけるか、人々を味方につけるかしなければ立ち行かなくなる。
小説家のアプローチの仕方も現代では変化した。
しかしどれほどエンターテイメントが好まれようと、このような小説は滅びて欲しくないと思うし、どうか残していきたいと願い行動するのが文筆家、いや、人をきちんと見つめる小説家の性分のような気がする。
未完ではあるが、読みがいのある作品に久しぶりに出会えて、ありがとうと思えたことが、何よりもの分け前でした。

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