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2012.08.13 Monday



同名の小説から映画化された作品。
どうしてもこのような複数の人間模様を描いた作品の秀作として『BABEL』を思い浮かべてしまう。
小説が優れているだけに、脚本監督の力量が問われるが、少々長く、そして偏っている感じは否めなかった。
つまり「印象に残る配分」として中ごろに出てくる「虐待」が強く残ってしまい、他のものが小説抜きでは、ちょっとわかり辛い。
間接表現と直接表現の隔たりも目立つ。
映画は別物として小説とは切り離し、映画は映画の中で完結していなければいけないし、映画の中でヒントをすべて出しておくべきなのだ。
その点ではヒントが不足しすぎている。
ゆえに余韻不足だし完結し得ない。
そして多少長い。
もうちょっとだけコンパクトに出来たのではないかという印象が強く、「勇気を持ってギリギリまで削る」作業があれば、もっと優れた作品になったのではないかという印象すら持った。

原作がよい小説は小説のイメージに読み手は強く引きずられる。
それは脚本家であっても同様なのだが、原作をすべて映画で表現することは当然不可能だからピックアップしてオムニバス形式にしたのだろう。
しかし何故これを選んだのかということと、そしてそこから得たものを脚本家はどうしてこう編集したのかという意図が、「小説ありき」の映画になっていて惜しいのだ。
そして原作をちょっと変えてしまったことによって、原作の方が遥かに優れている点が多く出てきてしまった。
暖かい感じが冷たくなってしまったり、人情あるものが虚しいものになっていたり、演出上逆効果になってしまったものがいくつかあった。
ラスト間近ではいいカットがあった。
原作のある映画は原作を超えられないというジンクスを抱いているのだとしたら、それはNOだと言いたい。
映画には映画のよさがあるし、小説には小説のよさがある。
それぞれ表わせないものがあるだけに、映画で補えないものの延長線として小説があるわけではないし、またその逆でもない。

言われなければわからないのだが、映画のキャスティングに地元の人を使っている。
加瀬亮の奥さん役、虐待するいやらしい母親役の東野智美、その息子役の信山紘希はいずれも素人で作品の演出上非常に目立っていた。
知ると驚き。市電の運転手だって素人だというのだから、皆自然すぎて本職の役者かと思うほど。
現場の人たちはついつい思い入れが強くなってしまうし、映画スタッフだって、せっかくこうして努力してくださるのだから無駄にしたくないという思いは強くなるが編集は心を鬼にしてやらなければできないと思うのです。
映画は時間の芸術だけに難しい。

低予算で仕上げた映画で16mmで撮り仕上げに35mmに戻し、上映時にはデジタルに戻すなどフィルムを使って撮っているという。
淡い雰囲気が出ていて非常によかった。
景色は本当に綺麗。初日の出なんて、24時にロープウェイが止まるから朝動くまで山頂に軟禁状態とか、苦労話を聞くと映画の見方が変わるけれど、それは映画とは別腹にしないと面白くないんです。
こういう話は「デザート」であって、コース料理の締めくくりとしてよくなってくる。
メインデッシュの味付けが一番よくなければデザートはよかったよね、になる。

一言最後に締めくくるならば、惜しい。
いい映画なだけに、凄く惜しいです。

しかし、
・函館生まれの作家による、函館をモデルにした小説を、函館ロケで映画にする。
・今の函館の町並みを映像として記録し、後世への記憶に残す。
・市民参加の映画づくり。映画づくりという大きな目標を掲げた自主的活動が、町に活力をもたらし、文化活動の新しい形を生み出してゆく。
という映画化への目的は達成されたであろうから、充分とも言えるかもしれませんね。

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