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2024.03.28 Thursday
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2011.03.06 Sunday


第144回芥川賞受賞作品。
「苦役列車」を読んだら「あ、そういえば」と気になって、どうしようかなと思ったけど結局読むことに。
最初から先走って書くと、こんな様子が妄想できた。

「ねえ、今回『苦役列車』推したいんだけど、ちょっと生々しすぎる。この男子寮のむせ返るような酸っぱい男臭はなんとかできんものか」
「じゃあ、今回は2人にして、女性はどうでしょう。生々しいのを緩和するために、さっぱりしてて後味が口の中で溶けていくようなものがいいよね」
「あ、いい作品がありますよ。これにしましょうか。経歴とも申し分ないですよ」

なあんて、流れなんじゃないの?と勘繰りたくなる。
確かに「苦役列車」の中和剤としては充分だろう。
でも手ごたえを感じない。
というのはもちろん「生々しさ」や「リアリティ」ではない。

最初から順を追って話すと、まず「きことわ」って何?と疑問を持つのは当然だろう。
それで最初開いてわかる。
「ああ、主人公の名前を合体させたものね」と。
それで何で名前を一緒にしたのかという疑問もうっすらだがわかる。

正直に書くと読み終わってみて、私はこれが「少女が見る大人の夢」なのか「大人が見る少女の夢」なのか、区別がつかないところがあった。
というのは当然主人公の年齢は子持ちで中年に差し掛かるところであるとわかるのだが、そこには子持ちの主婦や女性たちが持っている生活における生々しさが一切ない。
それにこの作品だけかと思って他のも見たら同じだったので作者の意図したところだろうが、優しい漢字をあえて開いて表現している。
つまり「やさしいかんじをあえてひらいて表現」しているのだ。
ひらがなにしている。
テレビで聞いたときは「詩情」という言葉が出てきたけれど、この漢字の開き方における文章表現が「詩情」なのだろうか。

話が前後したが主人公描写に戻す。
ひとつだけ非常に感心したことがある。
それは「物への視点」だ。
男性はここまで事細かに物へ視点がいかない。
だいたい男性の視点になると「興味のあるもの」に隔たったりするが、女性視点は生活において存在する様々な物へ視点が移り、認識していく。
しかしとても残念なのは、まるでスーパーや百貨店に陳列される時に使われる「よくできた写真」のように綺麗過ぎて生活感がない。
たとえば野菜ひとつでも葉っぱがしなびていたり、綺麗そうに見えるトマトの一部分が傷んで食べられないほど味が変わっていたり、鍋についた小さな汚れ、洗い残し、作ったご飯の食べ残しなど、当然生活していれば汚れたものはたくさん出てくる。
この物への綺麗過ぎる描写が当然主人公たちの人生にまで及ぶのだから余計に「ふわー」と浮いたような気持ちになるだろう。
この作者の視点は、まるであたたかい昼ごろ、木漏れ日の中でうたたねをして、きらきらと揺れながら夢を見るような印象なのだ。
これは実際の子持ちの30代40代の主婦に聞いてみたいのだが、恐らく私と同じように「子持ちで生活しているような傷跡がない」という感想を持つのではないだろうか。
幼少期の体験が記憶の中のノスタルジーだと百歩譲って許せたとしてもだ。
まるで少女が大人の夢を見ているような感覚しか持たないのが一般読者の感想であろうと思う。
しかし、この書き方、この雰囲気、「ポスト江國香織」になるのではないだろうか、という予感はする。

そして問題の「詩情」についてだが、ちょっと疑問点がある。
詩というのは、ぶれないし、そして明確な視点を持っている。
しかしこの作品にはまどろんでいるような心地よさが全体的に漂っていて、まどろみの薄れてゆく視点の中に正確なピントあわせが存在する、というレベルまでは達していない。
ある人がこう言っていた。
「詩というのは書き始めた頃には完成している。啓示のような皮膚感覚を文字にしているだけなのだ」と。
私はこの言葉に同意する。
そして詩情とは読む側にも皮膚感覚における強烈なインパクトがなければいけない。
また萩原朔太郎もこう書いている。
「詩とは感情の神経を掴んだものである。生きて働く心理学である」

確かにこの作品は、まるで両者がひとつになりたがり、若かった頃の肌をなであい、そのきめ細かさを確かめあっているような、その退行は赤子のもちりとした、つやつやした肌の質感まで戻るのではないのか、という印象すら抱かせる。
しかし、しかしですよ、ここで一つの違和感が出てくる。
「主人公たちの年齢と環境」だ。
多くの読者もこのギャップに違和感を感じるのではないかと思っている。
この話が少女の話で一貫されていたら非常に完成度の高い作品になったかもしれない。
少女の無垢な純粋性の結晶を描ききった名作になったかもしれない。
しかし大人はもっとどろどろしたものと向き合っている。
読書する時にその経験を重ね合わせてしまう。
この話では「現実逃避」にもなりがたいのだ。

この話はこの漢詩がぴったり似合う。

春眠暁を覚えず、
処処啼鳥を聞く、
夜来風雨の声、
花落つること知りぬ多少ぞ。
~「春暁」 孟浩然~

とにかく視点はある。
踏み込み方が甘いだけの話であって、これからの成長に大いに期待するべきではないだろうか。
と、偉そうに書いたところで今回の感想おしまい。

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2011.03.05 Saturday



私が知る限りでは、資本主義社会における成功法則を世界で最初に打ち立てることができたのは、アンドリュー・カーネギーの依頼を受けて「成功法則」を完成させたナポレオン・ヒルだろう。
その「成功法則」にも、この本にも特に難しいことが書いているわけではない。
特にこの2冊の本は、すぐにでもできる簡単なことが書かれている。

一番最初にナポレオン・ヒルの本を読んだ時、精神的にとても辛い時だった。
行動することそのものに対してとても苦痛を感じ、長続きせず挫折し、余計にネガティブになっていて、当時の私にとっては「自分をダメにする本」だった。

というのは、すべての行動の前段階となっているのは「精神」であって、肉体ではない。
その精神がボロボロであるならば、精神の癒しが必要なのだ。
精神がある程度ちゃんとしていなければ行動するだけで精神が痛めつけられる。
だから精神の癒しには、ネガティブなものを遠ざけていく必要性がある。
つまりそれは自分の言葉であったり、他人の存在であったり、ネガティブにさせる対象であったりする。
その環境を完璧に用意することは非常に困難だが、減らすことはできる。
そして、大事なことは自分の小さな「成果」を絶対に否定しないことだ。

日本人は完璧なものを要求するふしがあり、それは「成果」や「評価」や「対比」であったりする。
そしてあらゆる基準で自分を見られ、その基準に当てはめて自分の人間性まで自己評価しがちだ。
しかしこれは間違いなのである。
当然「社会の評価」は生活というものにも関わってくるし、この「他人の目」や「評価」という呪縛は、平均から劣っている人間にとっては苦痛だし恐ろしく重苦しく、酷くなれば生きている意味すらも否定してしまうほど強い。

この呪縛を取り払うには非常に時間がかかるが、「評価」というものは「ある一定の”審査基準”に当てはめて見られるもの」であり、当然「将来の自分」でもないし、「自分が持っているすべて」でもない。
ここに「呪縛」から逃れるチャンスがある。
つまり通常人の思考はこの呪縛の中に入ると「相手が設定した基準の中で努力しようと行動しだす」ものだが、呪縛が解けると「評価ではくくることのできない自分」を高めようとすることができる。
そしてそこまでいきつくことができれば、後は小さな積み重ねを徹底的に視覚化し、声に出して褒め、他人の評価を受け流しながら自分の魅力や長所をとことん伸ばしていくことができる。

しかし、会社組織で働いていると、必ず「評価」を口に出し、優劣をつけられ、ネガティブな思考を植えつけられがちだ。
会社人にとって時間は「流れているもの」ではない。
「区切られているもの」だ。
だから会社人にとって一番大事な考え方は自分の時間をいかに区切って整理していくかにかかっていると思う。
これは色分けして視覚化していくとすむことだが、大事なポイントは「完璧主義」に決してならないことだ。
無理の無い計画と時間の融通性、小さく見積もって±10、多く見積もって±20ぐらいの時間の融通は欲しい。
融通性は計画にも欲しい。
一日の計画として、これもやはり完璧主義になるのではなく、自由にプランを足したり引いたりできるとよい。

私はここ最近は自分でできたプランには金色のマジックでできた内容をカレンダーなどに書いている。
それがたくさんできると結構圧巻だ。
私は計画を立てるとその通りにできず、逆に落ち込むので曖昧にしか計画は立てない。
私にとってはこの「曖昧さ」がちょうどいいのだ。

この本を読んでみて気がついたのは、昔はやることでさえ苦痛であったのが今は半分くらいは自然にやっていた。
どうしてだろうと考えたのだが、無理をせずに自分の現状を徹底肯定していたからだった。
まず他人の評価、自分の実績、これらの「評価」に値するものをすべて頭の中から取っ払った。
そして自分の環境、レベル、実行したいもの、足りないもの、などを冷静に分析しだしているのかもしれない。
最も変化してきているのは、苦痛だった「行動」に喜びを少しずつだが見出せるようになってきていることだろうか。
行動することにおいて「快」の感情はとても大事だ。
だからこそ小さな成果には他人のことなどおかまいなしに、一人でそっと自画自賛してあげればいいのだ。
そんな「小さな違い」を見つけてあげることができるのも自分しかいない。
他人は「大きな変化」しかわからないものだ。

日本人の多くは「失敗」を「取り返しのつかないもの」として考えがちだが、「失敗」こそ「英知」なのだ。
この失敗に対する反省を繰り返して人は大きなものへと近づいていく。
失敗以上に優れた師匠はいないのに、この失敗をネガティブに捉えるとは、とても残念なことだと今の私なら思う。
特にこの手の失敗を悪く言う人間は「破壊者」でもあるので付き合いは考えたほうがいい。
失敗は自分だけにしかできない貴重な体験だ。
失敗を恐れず、どんどん行動していくことこそ、自らの人間性が輝いてくるものと私は信じている。

あなたが若ければ若い方がいい。
「評価」という呪縛から自分を解き放ち、より輝く人間になるべきだ。
そして良い人間とは、他人を生かすことのできる人間になるということだ。
あなた自身が他人を殺す「破壊者」に進んでなってしまってはいけない。
人を生かすことこそ、最も素晴らしい経験と人間性であると私は信じている。
一緒に頑張ろう。


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2011.02.25 Friday


第144回芥川賞受賞作品。
ということで、一方の朝吹真理子とは違い、やたらとテレビに西村賢太の名前が出てくるし、ネットで共感する人多数、のような報道のされ方もするので、さていかなるものかと今更ながら読んでみました。

…久しぶりにぞっとする文章だった。
こりゃ凄いわ、というのが第一印象。
これをまともに読んだら本当にこっちまで鬱屈してきそうだし、一人の人間として見たら吐き気もすれば、こちらが持っている負の感情をあおられるようで読めない。
私は芥川賞受賞に対して「ああ、芥川賞ってまともだったんだ」とこれを読んで思った。
つまりいい意味で「ぞっと」させられた。

ある意味日本版「ファイトクラブ」のような男性的な暴力性を感じたし、「火の鳥鳳凰編」の我王を彷彿とさせられた。
というのは、この話は私小説とはあるが、作者の側から見れば当然「日記」ではない。
だから破天荒な人生を送ったからといって、この手の小説が書けるかといったらそうではなく、当然文才も必要だし、一歩引いて自らを事細かに観察する他人の視点がなければ書けるものではない。
通常人間は自分をモチーフにする時、必ずどこかで美化するが、これにはない。
ある意味達観した境地がある。
よく読めばこの話が意図されて編集されているのがよくわかるし、主人公にいたってはデフォルメした後にさらに戯画化されているのがよくわかる。
つまり題材は自分でも、その自分をいかに切り貼りしていけば、この手の人物像を戯画化できるのかという意図された小説だということがよくわかる。
それだけにここまで圧倒的な筆力でガツンガツンと掘り込んでいく、力任せの掘り込み方は、そう他の作家が簡単に持てるものではない。
それは自分自身のリアリティというものを戯画化しているからに他ならないからだ。

当然個人の立場から見ればこんな男とは友達にはなりたくない。
扱いに困るし劣等感に触れれば怒るし、卑屈を感じさせる対比があれば不機嫌になるし、このような人間が心底友達だと思えるのは自分よりやや酷い生活を送っているか、まったく同じような劣等感を持った憎しみと怒りと卑屈さの塊のような同種の人間とだけだ。
男性でさえこの手の人種は嫌な感じがするのに、女性が読んだら心底男性不信になると思う。
それに、本当に「男臭い」。
まるで衣服を脱ぎ散らかし、掃除もろくにされず、ゴミが散乱しているすえた臭いの部屋に入っていくかのような感覚だ。

この負のエネルギーたるや半端なく「美しいものをぶっ壊してやりたい」という昇華されぬ暴力性がとにかく生々しい。
そりゃあ男性だから自慰もすれば、アイドルかなんかの写真を見てしたり、劣等感があれば卑屈なエネルギーを爆発させて高飛車な女を犯し、顔に射精でもしたくなる、という妄想は一度はあるんじゃないのかなと思うがどうだろう。
映画の「ファイトクラブ」を見たときも感じたが、男性には得も知れぬ暴力性というものがあって、それを現代風に昇華している。
それが「仕事のできる」ことであったり「出世」だったり、何かを通しての「名誉」だったりする。
やたらと男性がそういうところにこだわったりするのは野生時代の狩猟本能を現代風に変化させているからだと思っている。
だから獲得していく充足感がないと、とことん腐っていくし、腐ったものに昇華されぬ暴力性が乗っかり余計にたちの悪いものになる。
女とよくしている男友達に嫉妬したり、何かと比べて俺だってこうなってもいいんじゃないかと勘違いしたり、うまくいかないことに苛立ちを覚えそれを抑えることなく他者にぶつけたり、となるわけだ。

また我王を思い出したのは、このダーティーヒーローは生きていこうとすればするほど、自らの過去が因果となって降りかかり、逃れようもない災難をこうむっていくという、結局は最後まで愛されぬ実力者になっていくのではないかと思ったからだ。
実際我王は鼻の薬を塗って懸命に愛してくれた女性を疑心暗鬼から切り捨ててしまう。

等身大の人間として読むと嫌悪感を催すのは当たり前。
でも、一歩引いて見ると、小さな、まことに小さな人間の、自らの痛みに耐え切れずのた打ち回り周囲を傷つけることしかできないこっけいな話ではないか。

この本、後半にもう一編ある。
『落ちぶれて袖に涙のふりかかる』という川端康成賞候補になった時の話だけれど、この作者としての劣等感、よくわかる。
「俺のほうが実力があるのに、なんでこんなやつが」という「俺だって頑張っているし、こいつはただ運がいいだけじゃないか」というね、この手のね、嫉妬心ね。
よくわかりますよ。ええ。
この手の嫉妬心を本当に臭ってくるようなものに乗せて書いてくるという、えげつないセンス。
いやあ、凄いものを読ませていただきました。


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2011.02.19 Saturday


ちょうどこの本が出た3年前に、私は2ヶ月ほどアメリカにいた。
2005年2月のことだ。
写真を見つけて確認したので間違いない。
今から6年も前のことになる。

その時ホームステイをしていた。
ホストマザーが私が洗濯機や雨季だったため乾燥機を使うことに目頭を立てて怒った。
「私の家は貧乏なのよ!」と血相を変えていたのを思い出した。

少なくとも私が見ていたのはカリフォルニアのスタンフォードなどもあるサンフランシスコの少し北。
ここらいったいは学生の雰囲気があり、私のいた地域はのんびりした雰囲気もあった。
スタンフォード近くになると、学生も多くなるし、行き交う人が学生を受け入れていた。
電車の中で(電車の中に自転車を持ち込んでもいい)席に座っていたおじさんが学生に「お前その自転車どうしたんだ」と話しかけ会話していたので知り合いかと思ったらそうじゃないらしい。
そんな風に普通になごやかに成り立っている地域だった。

2005年の州知事は映画でもおなじみのシュワルツネガー知事。
市民活動家がサクラメントの知事のいる建物の敷地内でスピーカーを用意し「(ダム建設反対に際し)やつは鮭を殺すアーノルド・ターミネーター・シュワルツネガーだ!」と叫んでいた。
集団の中でかわるがわるダム建設反対についてマイクでしゃべる。
そういう活動が堂々と認められているらしい。

サンフランシスコ、このサクラメントでもそうだったが、ホームレスがごろごろいた。
友達と歩いているとサクラメントでホームレスに話しかけられ、「何か食べ物ないか?少しの小銭でもいいんだ」とはじめての体験をした。
そのホームレスは丸々と太っており、日本人の感覚として「そんなに太ってんだから、食べ物少しくらいなくても大丈夫だろ」と思った。
後ろから2人組みのホームレスに追尾されたこともあり、「ついてきているけど、なんかまずくない?」と話し合い足早に逃げたこともある。
特にサンフランシスコは見た目で治安のやばそうなところがわかる。
落書きが多くなり、ホームレスが多くなり、ゴミが散乱している。
見た目からして「荒んでいる」のがわかる。
だから興味本位で近づくのはやめていた。

食生活にいたっては日本食に慣れていると、アメリカのスタンダードな食事は「これ死ぬよね」という思いがした。
しょっぱい、脂っこい、甘い。
ミネラルウォーターよりもスプライトやコーラが安く、ファーストフードなど安いものは高カロリーのものであふれていた。
ホストマザーは食事の中に当然のようにお菓子(チップス類)を入れてきた。
さすがにこの食生活では太った。
ダイエット番組でも筋肉隆々の男が「これが俺のダイエット朝食だ!」と自慢げに卵やサワークリームなどでいっぱいの皿を見せられた時には目を真ん丸くしてしまった。
日本食ってカロリー栄養バランス共に優れているのだなとつくづく感じたものだった。
そして日本人は食生活共に恐ろしいほどの贅沢な環境にある。
最低限、水がクリーンで安全で、おいしいところさえもあるというのはとても幸福なことだ。

私がアメリカから帰ってきて3年後、この本が出た。
医療格差と保険会社の詐欺的行為や低所得層による肥満問題、戦争ビジネスの問題を浮き彫りにしている。
すべては中間層がことごとく低所得者層に落ちていき、這い上がるチャンスさえもないということだ。
その貧困問題が最低限の生活の保障を犯し、教育の格差も生んでいる。
そして民間企業による貧困ビジネス。
骨までしゃぶっていくかのような所業。
医療問題や貧困による教育格差、低所得ゆえにバランスのいい食事が取れず高カロリー食品をメインにとらざるを得ない状態、そこまではアメリカで多少暮らしていたから「ああ、あの延長線上にもっとひどい状態があるのだな」と想像できる。
しかし最もぞっとしたのは民間企業による傭兵派遣だ。

ゲームで「メタルギアソリッド4」というのがあり、このゲームでは民間企業による代理国家戦争というのを描いていたけれど、これを思い出した。
民間企業に個人情報がすべて「パッケージ」として細かにデータとして知られている上に、このコンピューター社会による、マイナス面がもろに出ていた。
我々の行動記録はほとんどデータとして法人や国家が管理している。
その情報はひとつの「パッケージ」としてまとまって管理されているわけだ。
「流出」でいちいち騒いでいるけれど、民間企業ならば倒産や合併後の情報管理までは制御しきれないと思う。
そして生活に困窮していれば、金を積まれれば個人情報は売ってしまうのではないのか。
そういう個人情報による「個人の格付け」。
借金状態から返済履歴、収入や現在の生活状態、家族構成、病歴、交友関係、購入物品履歴などなど、すべてのものが利用できる「パッケージ」として存在し、それが民間傭兵派遣会社に利用される。
高収入をうたい、最前線に派遣し、つかい捨てる。
これらはすべて低所得層がターゲットにされる。

この手の動きは戦争を放棄している日本とも皆無ではない。
戦争に参加しなくても、巻き込まれる可能性すらある。
そして日本人だって生活に困窮すれば悪魔に魂を売る人間だって出てくる。
これからの日本はアメリカのような国に巻き込まれてはいけないし、お金さえあれば何でもできてしまうような状態の中で他人の人生を金のために利用するような悪をのさばらせてはいけない。

アメリカは確かに自由だった。
しかし6年もたってその面影もなくなっているのかもしれない。
このことは私がいた6年前のアメリカが貧困社会への過渡期だったとしても、ものの数年でガラリと変化してしまうくらい国家というのはさじ加減ひとつで不幸な人間を数多く作り出すという教訓を肝に銘じておかなければいけない。

予断だけれど、これからの時代、貧困層は「現実」であえぎ、富裕層はより浮世離れしたバーチャルな世界で人生を謳歌するという2極化が起こるかもしれない。
もしそうなったら、貧困層からは偉大な政治家は資金力の問題で出てこないだろうし、お金を持っている人間は現実感がないから、いつまでたっても溝が埋められない。
こういう単純な構造に陥ることだけはよして欲しいと願うばかりだが、アメリカに似てきている日本は、これからどうなるだろうかと心配するばかりである。


P.S.
医療の問題に関してはマイケル・ムーアの「シッコ」。
マクドナルドの高カロリー食品のとりすぎによる内臓機能低下についてはモーガン・スパーロックの「スーパーサイズ・ミー」がある。
合わせて見るといいかもしれない。


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2011.01.31 Monday




ああ、買ってから数年は積んでいた記憶が。
いつ買ったんだろう。
あったのは知っていたし、読もうとは思っていたものの、後回しになっていた。

内容は二つの話が平行線上に動いて二つの世界をつなぐ人物が世界をつなげている。
猫と話ができる老人と、15歳の家出少年の旅物語に最初は読めるだろうが、最後はスタンリー・キューブリック作品みたく、どこか宇宙に行ってしまうのではないか、未知との遭遇があるのではないかと、ハラハラして読んでいたけれど、ここは村上春樹読者が「やっぱり村上春樹ですよ!」というような内容で終わる。

読んでみて、強く印象に残ったのは「これは童貞小説だな」と。
読んだ後どうしても「僕」といいたくなるのは、やっぱりこの「春樹節」が効果覿面に染み込んでくるからなのだろうが、やっぱり僕は村上春樹が今は少し苦手なのである。

村上春樹文学に触れた時、特によく感じるのは「ぼやけた曖昧さ」である。
この妙にはっきりとしない感覚がなんとも嫌で、「それはなんなの?」と言われてもうまく説明できない。
つまり、たとえば作者の立場として「僕はこうだと思うし、こうしたほうがいいし、こうあらなければならないと思うんだ。でもそれは僕の考え出し、君は君だし勝手にすればいいんだよ。これは僕と世界の問題なのだから」という距離感。
そんな距離感を取りながらも、さらに「僕と世界は繋がっていて、世界と君は繋がっているのだから、僕と君の関係は無関係とは言うことができないんだ」という、このあいまいさ。
「ああしろ」「こうだ」「あっちへいけ」というメッセージがあるようで、ぼんやりとにじんでいく。
それはまるで、インクで書かれた文章が水につけたらぼやけていくような、すりガラスの向こうで裸らしきものを見ながら想像するような、もどかしさがある。

村上春樹文学を読む時に、みんな深読みをする。
それは春樹の文章そのものに、あらゆる「メタファー(隠喩)」があるからに他ならない。
その散りばめられたメタファーを繋ぎ合わせてパズルのように読者は深読みするのだけれど、ネット化、グローバル化、なんでもよいけれど、この繋がっているようで繋がっていない、でもそれらは世界に存在しているという世界観こそ、僕らが世界を再認識する上でとても大事なことで、でもそれは感じるだけで終わってしまうような、そんな「感触」が残るために春樹の文章をみんな深読みするのだと思う。

僕はこの小説を「童貞小説」だと言った。
僕は男なので女性のことはわからない。
でも「童貞」というのは、リアルのセックスをしていないから、あれこれと女性とのセックスのことを想像する。
そのエネルギーは様々な方向へと飛び火して積み上げられていく。
それは、あたかもあらゆる「メタファー」が存在しているかのように、辞書の中の卑猥な単語に興奮を覚えたり、夏の薄いブラウスの中に透けた下着の色を見て興奮したり、アイドルの写真の水着姿の胸の大小や、股間や太もものあたりに妄想が膨らんで、夜な夜な淫らなストーリーを作っていくという、無限の想像力に満ち溢れている。
少なくとも、淫らなことまではいかなくても、片思いをしたら、純粋に頭の中でデートを楽しんだり、こうだったらいいのに、という純愛に浸りきったり、「童貞」は「体験していないからこそあらゆる方向に向かって想像を膨らませることができる」という「無限のエネルギー」を持っている。
しかし、これがセックスを体験したら違う。
嫌がおうにも現実に直面するし、傷もつけられるし、思っていたものよりか遥かにかけ離れていることは避けられない。
自分の望んだようにセックスできたり恋愛を進めていくことはできないのだ。
もし、そうなってしまったら、もう「童貞のように妄想を膨らませることはできない」。
いくつかあった力の進行方向も、現実の中でできた「傷」や「現実感」そのものに塞がれ、エネルギーの方向性が徐々に定まってくる。
それは生きていくうえで避けられない体験であったり現実感であったりする。
僕らは一度「門をくぐって」しまえば、もう門をくぐる前の景色に戻ることはできない。
それは「童貞が現実を知ってしまった」かのように。
僕たちは「生きる」という行為を通して常に何かを犠牲にして、そして何かを得ている。
この選択した現実はどのように誤魔化そうと避けられないことだ。
その犠牲の出し方や、現実の選び取り方が、僕らの人生そのものに影響していく。
『海辺のカフカ』は、『童貞喪失』の話でもあり、『門』でもあるように思う。
だから思春期の人たちに絶大な人気を得るものだと思うし、誰もが通る道だと思うし、そして「いつかは卒業しなければならないもの」だと思う。
ある日僕らが卒業アルバムを開いて、あの時はあんなこともあったし、こういう風に生きていた、でも、もうここには戻れないのだよな、という現実を積み重ねてきた自分と確かに世界に存在しているものへの対比をしながら、時には今生きている自分を戒めたり、時には懐かしさに浸ったり、また何もかも知らないかのように「あの頃の何も知らなかった自分を思い返しながら世界と自分を見つめなおす」という作用が、この小説にはあると思うのだ。
そしてその時、はっきりと自分が何を「喪失」したのか理解する。
この物語の中にはメタファーは確かに強く存在している。
しかしそれらのメタファーをどう取るのかは、すべて読者にゆだねられているもので、それだけにあいまいでぼやけている。
なんとも言えない御伽噺のような世界観は村上春樹ワールドでしか味わえないものだけれど、僕にはどうしても、あいまいさゆえの苦手意識が取れないんだ。

でも、村上春樹の影響力は私が「僕」で語りたくなるほど、恐ろしく強いものであることは間違いない。
この曖昧さとぼんやり残る感触が、「また読みたくなる」という村上春樹の魔力でもあるのだろうが。

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