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2024.04.26 Friday
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2012.03.12 Monday


久しぶりに頭をフル回転させました。
そして何年かぶりに劇場で見たいと思った作品。
映画を見て一つ気がついたのは「ああ、ハリウッド映画ってなんて饒舌だったのだろう」ということだ。
饒舌な映画というのは、とにかく喋る。
シーンを説明するために、何が起こっているのかを観客に考えさせないように、とにかくスクリーン全体を通して「喋り続ける」。
だから売れ筋のハリウッド映画というのは、考えなくてもいいし、余計な思考回路を使わなくていい。
だからこそ、この映画を見て、人により様々な解釈を与えるアプローチがとても久しぶりに思えた。
ああ、こういう映画も出てくるものなのだな、と感動した。

内容は成人もの。
最初からマイケル・ファスベンダーのイチモツが出てくるような裸のシーンがドーンと出てくるし、セックスシーンも多く含まれている。
この映画の一番特徴的なところは「饒舌ではない」というところだ。
例えば「この台詞が成り立っているのはどうしてか」「このシーンが成り立っているのはどうしてか」という仕掛けが随所にあり、そこに観るものの様々な憶測と解釈を生む。
饒舌なハリウッド映画に慣れている人は見ても、やたらとセクシャルなことしか出てこないように思えるかもしれない。
そして「疑問を持って初めて観客として成り立つ映画」なので、様々なことが明示されず、解釈できなければつまらないと思う。
何が起こっているか饒舌には説明してくれない映画なのだ。

マイケル・ファスベンダーが演じるブランドンは「セックス中毒」とあるが、部屋でポルノビデオを見たりビデオチャットセックスもするし部屋だけではなく会社でもパソコンの中はポルノ映像でいっぱいでトイレで自慰をするくらいだから相手がいなくとも「性的な刺激」がないと、どうしようもないような主人公。
この映画でヴェネチアの男優賞をとっている。納得。
私は男性だったのでちょっとわかる部分があるのだが、男性が「過剰なセックスをしたがる」というのは多くは「フラストレーションを抱えている」ことがあげられると思う。
フラストレーションの発散の手段として性的な刺激を欲しがる。
だが埋められない。
問題の根本を解決しているわけではないから。
部屋に上がり込んでくるシシー役のキャリー・マリガンも宣伝だけ見たら「娼婦役」かと思ったら実の妹だった。
そして一番重要な点はシシーを最後まで肉親として扱うというところだ。
これがセックスをする対象になってしまったら何がなんだかわからなくなって、一気にこの手のセクシャル映画がやりがちなB級C級への脱落を果たしていたところだった。
このシシーもリストカットの痕があるのだが、やはりそういう細かなシーンを見ていくと「この二人の子供たちが育ってきた環境」というのもうっすら推測できるし、「傷持ちであり、兄とは反対の位置にいる不安定な身分の妹」から「仕事部屋を与えられるほどのオフィスに勤めていて、自分の部屋も持っている注意力深いできた兄」を見ると、実は同じ「傷持ち」なのではないか、ということもうっすら浮かんでくる。
そうなると途端に「なぜ性的刺激が必要なのか」ということに切なさがつきまとう。
「同じ傷」とは何か。
繋がらないようで裏で繋がっているのは何か。
ここらへんは観客の解釈の多様性が生まれてくる。

全体的に映像が綺麗で透明感のあるシーンに彩られていくが、男として見ると「プライベート空間に入ってきた肉親の気まずさ」や「やたらと動画を探したり、女性を性的な対象として舐めるように見る」という主人公に感情移入してしまう。
妹に自慰を見られて絶望的な気持ちになり、お前の家じゃないのだから出ていけと切れたり、その怒りの勢い余ってポルノ雑誌や毎日動画を見ていたパソコンやアダルトグッズをすべて捨ててしまうとか、妹が自分の家で上司とセックスしだして、いたたまれなくて走り出してしまうというやり切れなさ、フラストレーションの発散の場を失い苛立ち、妹は性的な対象として見ないという、きちんとした区切りの中で身の置き場をなくしていくような心の乱れがよく出ていた。
何せ自由にコールガールを呼べたのが、妹がいるから全然呼べなくなるのだしね。

同じものを持っていながら対照的な二人。
部屋は小奇麗にしているが、心まではどうなのだろうとか考えてしまうし、とにかくいろんな意味で「危ない」と思ったのは「性的な嗜好」で「これよくアメリカで問題にならなかったな」という人種的なシーンまで入っているので刺激的と言えば刺激的だった。
主人公が最長で女生と四ヶ月しか付き合ったことがないとなると、何かふっと思い出すことがあった。
というのは、以前私自身「恋愛の過程」が好きで「好きになってもらったら興味を失う」という変な癖があり、「好きでいられる」ことが重かった。
人から好かれるということに違和感があったし、本当に好かれているのか疑心暗鬼に勝手に陥るということもあった。
人を愛せない人間はだいたい思春期などの多感な大事な時期に何らかのトラウマを負っていることが多かったり、愛された経験が圧倒的に少なかったりする。
リストカットをしなければいけない心理も、なんとなくわかるだけに二人の立場が非常に辛く見える。
自己嫌悪と愛情飢餓の中でもがくからこそ人をうまく愛せず、うまく付き合えない女性。
きちんと話し合いたいが溝は深まるばかりで、どうしたらいいかわからず、やっぱり自己嫌悪が爆発してしまうというやり切れなさ。
とにかく「やり切れない映画」なのだ。
そこにある程度の理解が及ぶかどうかが映画を楽しめるかどうかに関わってくる。

この映画に強い感想を持った女性がいるのなら、ぜひ語り合いたいと思いましたよ。


追記:
2012年3月14日
非常に鋭い視点のコメントをいただいたのでご紹介します。

今日観たのですが、非常に共感するところがありました。相手から与えられるものに対して性欲と愛の区別がつかない妹シシーと、愛することから自らを閉ざしてひたすら性欲を満たして日々をやり過ごす兄ブランドンは裏表の関係で、あからさまに異常な精神病患者などではなく社会に適合してそのあたりに普通に生活しているような人たち。愛と性欲の関係が現代ほど多様で混乱した時代ってなかったんじゃないかな。多かれ少なかれ皆シシーやブランドンのような当惑を抱えて生きているような気がします。(無記名)

実はこの手の女性は結構見てきて、昔精神が病んでいたころは、「メンヘラ」といわれるような女性とよく仲良くなった。
「愛される」ということに非常に敏感で、性的な関係が一度でもあると、そこに「愛情」や「恋」を見出してしまいのめりこむ。
一度「裏切り」のようなものを男に見出すと過剰に反応したり、とにかく相手の愛情が欲しく、執着がどんどんひどくなっていく。
「愛情」をくれない男にひどく当たったりするが、別れるとなると豹変してすがりつく。
これが男性になるとよくDVになり、別れるとき人が変わったように優しくなる。
そこまで精神が病んでいなくとも「愛情に手応えを感じない」という人間は数多くいるように感じる。
それこそ「愛情の種類を選び、自らも出せるものが限られてくる」という現代人の環境・スタイルや感情の間で成り立つ恋愛に多種多様な性癖も絡んでくる。
ストレスを多く抱えているし、性が商品化されてフラストレーションの捌け口とされている。
性と愛。
性の場合、本能だからどうしてもムラムラくるときがあって、そこに「愛情」など一切差し挟みたくないときもある。
だから「自慰」という手段があるわけで。
でもやはり人と接する快楽は自慰よりもいいわけですね。
そこに「愛情」を差し挟まないで、お互い「欲求の発散」と割りきれれば、これほど都合のいいことはない。
現代は性商品にあふれていて、性的な繋がりを持とうと思えばいくらでも持てて、「愛情」というものを紡ぎあって生きることの境目をきちんと持っていないと感覚的なものから境目が曖昧になる。
理屈ではわかっていても感覚的に感情が侵食されて境目が消えていくという現象が起こってくる。
そして性的なものに対して、ある種の抵抗が薄れてきている。
ネットではいくらでもあふれているし、若者にだってきちんとした性教育がなされていない。
日本でだって性がカジュアル化するという現象が起こっているくらいだから、この映画だって他人事ではない。
この手の映画は嫌煙されがちで、つい「ポルノ映画」みたく先入観が持たれてしまうけれど、本当にうまい脚本だなと改めて思いましたよ。

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2011.07.15 Friday



社会派ミステリーとして、何度もリメイクされ映像化されている松本清張の代表作である。
初版が1960年だから、私の親が生まれた年と言ってもいいくらいの開きがあるだけに古さが浮かぶだろうが、そうでもない。
すらすらと読みやすい文章から、携帯電話もインターネットもなかった時代の忍耐力がうかがえる。
自分としては今西刑事が俳句を読むのだけれど、下手でもつづっていく俳句の登場がもう少しあると当時の風景がありありと浮かんだのではないかと思う。
これを読んでいくつか思ったことがある。
当時としては当たり前の風景が今となっては貴重な資料となりえる、ということである。
だからこそ、方言や今となっては見られなくなった病気のことなど、しっかりと記述しておくことで、その当時の風土や風景がいかなるものだったのかが伺えるのだ。
このことは年代が経ってみないとわからないことではある。
いくつか、ちょっと強引なところもあるが当時のトリックとしては斬新極まりない。
とある機械についても、ヨーロッパでフーリガン対策か何かで用いていたが結構大型、車の上につけていて50mくらい先の人にあてていたから大きいのだろうが、やはり結構な威力を出すには大きな装置が必要になっていた。
昔はどうだったのだろうね。
ただ、松本清張の短編などを読むにあたり、主人公の推理や勘が超人的に冴えている、もしくは執拗に考え抜くところは、作者本人の勘の鋭さ、疑問の持ち方がありありと反映されている。
後半になって、神が降りてきたように事件を述べていく。
ここら辺の文学性の欠如は解説でもちゃんと書いてある。
社会派ミステリーと呼ばれるようになったのも、いわゆる差別となった病気のことや、今の日本でもそうだけれど出世に傷がつくことを恐れる日本人の出世意識が強く出てきているからだ。
経歴に傷がつくのを日本人は恐れているし、経歴に傷がついている権力者を日本人はあまり認めたがらない風潮は強くある。
だいたい大人になると他人の優しさを多少冷めて受け止めてしまう感覚になっていくところ、とても寂しいことではある。
特に過去に対して深い傷があったりすると、人間を根本的に信用していないし、信じられないし、だいたい信用したら裏切られるという、なんとも蟻地獄のような目にあうのは、別に小説だけの話ではないのだ。

ところで方言が最初のトリックになっているところ、方言について考えさせられる。
これから方言ってどうなっていくのだろう、と。
多少は残っているが、この小説が書かれた状況からはだいぶ薄まってきていて、聞き取れないような方言を話す人は若い人ではいなくなってきている。
「私でもおじいちゃんおばあちゃん何言っているかわからない」というのだから、方言もまた資料上の記録にしか残っていかないのではないか、という時代の流れを感じながら小説を読んでいた。
前半戦汗水垂らして地道に動いていく今西刑事や周辺人物の人間味が、後半になって薄まっていき、前半の生き生きとした人間模様のあり方が多少薄味になっているところ、書き方の難しさを教訓として突きつけられる作品でもある。
また長編になればなるほど作者本人が仕掛けたトリックに振り回され、大きな欠陥を生むことになることなど、まるで犯罪者が整合性を取ろうとして逆に不自然になってしまうという創作ならではの難しさもこの本には存在している。

芸術家や批評家が出てくるけれど、これらの存在は内省することで客観性を保っていないと本当に独善的な世界を積み上げて、そこに固執し続けなければならないという事態を招く。
男の人は、本当に力の上下関係に弱い悲しい生き物なのかもしれない。

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2011.05.08 Sunday


「BABEL」で世界的に有名になったアレハンドロ・コンサレス・イニャリトゥ監督作品。
ショーン・ペンとナオミ・ワッツとベネチオ・デル・トロが出ておりますが、なんとまあ重苦しい。
人を選ぶ作品ではあります。

「life goes on=人生は続く」という言葉がぼちぼちと作中に出てくるように、喪失と再生の物語から「人生は続く」ということまでを繋げる作品ではありますが、一口では「悲劇」なので、エンターテイメント系の映画しか見ていない人は覚悟してみないと辛いかもしれない。

この映画の最も特筆すべきことは「編集の勝利」といったところでしょうか。
文字通り非常に編集技術が優れています。
「BABEL」でもそうでしたが、時系列にシーンを並べません。
ストレートに並べてしまったら、ひどく凡庸な映画に終わってしまったと思う。
この監督さんは「人間らしい記憶の視点」を大事にしているのではないかな。
だから編集もそうだけど、カメラワークが第三者の視点であったり当事者の視点であったり、人が見ようと意識する視点に沿っている。

監督さんの母国メキシコでは「死」が生活と隣りあわせだという。
日本の日常では忘れ去るほどの距離にあるように感じるが、それはいつも近くにある。
21gというのは誰かが死んだ時に軽くなる重さだそうだ。

監督さんは「三人の弱さを愛している」と言っているけれど、人は弱さを持っている。
それは小説を描く点でも同じ視点で描く。
「弱さ」こそが人間らしい機微を出すのに一番リアリティがあるのだけれど、この映画の主人公たちは「弱さ」で引き寄せられている。
そして自らの「弱さ」に翻弄されているけれど、「弱さ」という視点で見るならば一番自分と向き合おうとしているのはトロちゃんじゃないのか。

この映画はひたすら「弱さ」というものに流されていく、いや、それこそまさに「絶望」なのだろうが、このシナリオだと命の輪廻は、まるで偶然で成り立つようにも思えてくる。
人間は意志があって、行動する限り、どうしても自分の欲(行動から来る因果)から「自分の人生は偶然によって成り立っているのではない」と思いたいだろうし、たとえすべてが「偶然」だとしても、そこに「意味」や「意義」を見出そうとする。
そうして「理由付け」をしながら人生を進めていっているように私は感じるのだが、どうだろう。
この監督さんのように、まるで「方丈記」のような「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず~」という境地にまでは、通常の人間は達観することはできない。
だからこそ、通常体験しないような絶望的な悲劇と私は無縁である、という意識のほうが先にたって、この映画を「遠い誰かの悲劇」だとしか受け取れないのではないだろうか。

でも、自分が体験した悲劇以外は感じ取ることができない、というのも寂しいけれど。
人間は通常「明日以降も人生が続く」と考えて生きている。
だから目標を立てたり、意義を見出したり、人生は決して偶然の産物ではないのだという要素をどこかに見出そうとして気力を奮い立たせる。
前を見ようとするきっかけをどこかで見出そうとしている。

ああそうか、きっとこの映画が示唆しているのも、そこなんだろうな。

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2011.03.27 Sunday


全文(官邸HPより)

司馬遼太郎が後世の人へ託した強い願いが込められている。
小学校の教科書にも掲載された名文章だけれど最初に読んだ時、店先で嗚咽しそうなほど込み上げてくるものがあり、本当に涙を抑えるのが大変だった。
それだけ元気をくれるし感動するし、何よりも優しく語りかけてくる。

「人間は自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている。」

いつしか自分への傲慢が他人を見下すことになっていないだろうか。
私たちは自分の中に思い上がったものを持っていやしないだろうか。

自己を確立し「たのもしさ」を備えた人間になるということはどういうことなのか。
「思いやり」「優しさ」「いたわり」とはどういうことなのか。

懸命に考え抜いて、自己満足で終わってはいけないのだと自分で軌道修正していく。

いくら外だけこぎれいにしていても、内側が汚ければ、化けの皮ははがれてしまうものだ。

文末にはこう書かれている。

「私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、以上のことを書いた。」

人間が最も持ちえる美しいものとは何だろう。

中には「洪庵のたいまつ」という話もある。
その冒頭の一文だ。

「世のためにつくした人の一生ほど、美しいものはない。」

自分に厳しく節制し、他人に優しくあり、よく助ける。
いやいや、それだけでは到底足りないだろう。

人は一生を通して自分なりの「たのもしさ」を作っていかなければいけないのだと改めて感じた。
きっと人々の「たのもしさ」の先に「よい日本」を司馬遼太郎は見ていたに違いないのだ。

「たのもしい人々」が作る「たのもしい日本」になることが、司馬遼太郎の願いを叶えることでもあると私は思っている。

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2011.03.24 Thursday




新海誠監督作品。
この作品によって一気に有名になってきたのだけれど、映像は全部一人で作ったという作品。
その後「雲の向こう、約束の場所」「秒速5センチメートル」と長編2作を発表した。
第二の宮崎駿と評される彼の作品はジプリとは違って切なさの余韻がめいいっぱい漂っている。
この作品は短編作品だけれど、必要最小限のセリフが詩のようにつむぎだされていて、何度も見てしまう。
音楽も絶妙なタイミングで入ってくるし、SFなのだけれど恋愛の「一緒にいれない」「離れて思いあう」という感情がぎゅっと詰まっている。
思うのは男性のストイックなこと。
どちらも一途に愛し続けるけれど、男のほうが状況的に色々誘惑もあるだろうに長い時間の中で生きているかどうかもわからない女性を愛し続けるというのは並大抵のことではできない。
青春の時期って、それなりに何回か恋をするものではないですか。
それで3年とかもたてばだいたいほかの女性に恋していたりする。
10代って時間が短いようで濃縮されているから、短い時間の中で本当に様々なことを思って悩んで過ごしていく。
だから青春って輝いているのだろうけれど、新海監督が凄いのは五感の感覚が優れていて、セリフの端々に匂いや音や視覚を大事にしているのが、とてもよく伝わってくる。
この作品に出ているそれらの五感感覚が後々の作品にまで生きている。
ああ、この監督さんの地金なのだなと、この作品を見直して改めて思うわけです。
もし他の長編作品を見て気になった人は、このスタート地点たる作品を見れば「作品に漂う詩情は新海誠という人間の本質だ」とよくわかるはずです。

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