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2012.03.12 Monday


久しぶりに頭をフル回転させました。
そして何年かぶりに劇場で見たいと思った作品。
映画を見て一つ気がついたのは「ああ、ハリウッド映画ってなんて饒舌だったのだろう」ということだ。
饒舌な映画というのは、とにかく喋る。
シーンを説明するために、何が起こっているのかを観客に考えさせないように、とにかくスクリーン全体を通して「喋り続ける」。
だから売れ筋のハリウッド映画というのは、考えなくてもいいし、余計な思考回路を使わなくていい。
だからこそ、この映画を見て、人により様々な解釈を与えるアプローチがとても久しぶりに思えた。
ああ、こういう映画も出てくるものなのだな、と感動した。

内容は成人もの。
最初からマイケル・ファスベンダーのイチモツが出てくるような裸のシーンがドーンと出てくるし、セックスシーンも多く含まれている。
この映画の一番特徴的なところは「饒舌ではない」というところだ。
例えば「この台詞が成り立っているのはどうしてか」「このシーンが成り立っているのはどうしてか」という仕掛けが随所にあり、そこに観るものの様々な憶測と解釈を生む。
饒舌なハリウッド映画に慣れている人は見ても、やたらとセクシャルなことしか出てこないように思えるかもしれない。
そして「疑問を持って初めて観客として成り立つ映画」なので、様々なことが明示されず、解釈できなければつまらないと思う。
何が起こっているか饒舌には説明してくれない映画なのだ。

マイケル・ファスベンダーが演じるブランドンは「セックス中毒」とあるが、部屋でポルノビデオを見たりビデオチャットセックスもするし部屋だけではなく会社でもパソコンの中はポルノ映像でいっぱいでトイレで自慰をするくらいだから相手がいなくとも「性的な刺激」がないと、どうしようもないような主人公。
この映画でヴェネチアの男優賞をとっている。納得。
私は男性だったのでちょっとわかる部分があるのだが、男性が「過剰なセックスをしたがる」というのは多くは「フラストレーションを抱えている」ことがあげられると思う。
フラストレーションの発散の手段として性的な刺激を欲しがる。
だが埋められない。
問題の根本を解決しているわけではないから。
部屋に上がり込んでくるシシー役のキャリー・マリガンも宣伝だけ見たら「娼婦役」かと思ったら実の妹だった。
そして一番重要な点はシシーを最後まで肉親として扱うというところだ。
これがセックスをする対象になってしまったら何がなんだかわからなくなって、一気にこの手のセクシャル映画がやりがちなB級C級への脱落を果たしていたところだった。
このシシーもリストカットの痕があるのだが、やはりそういう細かなシーンを見ていくと「この二人の子供たちが育ってきた環境」というのもうっすら推測できるし、「傷持ちであり、兄とは反対の位置にいる不安定な身分の妹」から「仕事部屋を与えられるほどのオフィスに勤めていて、自分の部屋も持っている注意力深いできた兄」を見ると、実は同じ「傷持ち」なのではないか、ということもうっすら浮かんでくる。
そうなると途端に「なぜ性的刺激が必要なのか」ということに切なさがつきまとう。
「同じ傷」とは何か。
繋がらないようで裏で繋がっているのは何か。
ここらへんは観客の解釈の多様性が生まれてくる。

全体的に映像が綺麗で透明感のあるシーンに彩られていくが、男として見ると「プライベート空間に入ってきた肉親の気まずさ」や「やたらと動画を探したり、女性を性的な対象として舐めるように見る」という主人公に感情移入してしまう。
妹に自慰を見られて絶望的な気持ちになり、お前の家じゃないのだから出ていけと切れたり、その怒りの勢い余ってポルノ雑誌や毎日動画を見ていたパソコンやアダルトグッズをすべて捨ててしまうとか、妹が自分の家で上司とセックスしだして、いたたまれなくて走り出してしまうというやり切れなさ、フラストレーションの発散の場を失い苛立ち、妹は性的な対象として見ないという、きちんとした区切りの中で身の置き場をなくしていくような心の乱れがよく出ていた。
何せ自由にコールガールを呼べたのが、妹がいるから全然呼べなくなるのだしね。

同じものを持っていながら対照的な二人。
部屋は小奇麗にしているが、心まではどうなのだろうとか考えてしまうし、とにかくいろんな意味で「危ない」と思ったのは「性的な嗜好」で「これよくアメリカで問題にならなかったな」という人種的なシーンまで入っているので刺激的と言えば刺激的だった。
主人公が最長で女生と四ヶ月しか付き合ったことがないとなると、何かふっと思い出すことがあった。
というのは、以前私自身「恋愛の過程」が好きで「好きになってもらったら興味を失う」という変な癖があり、「好きでいられる」ことが重かった。
人から好かれるということに違和感があったし、本当に好かれているのか疑心暗鬼に勝手に陥るということもあった。
人を愛せない人間はだいたい思春期などの多感な大事な時期に何らかのトラウマを負っていることが多かったり、愛された経験が圧倒的に少なかったりする。
リストカットをしなければいけない心理も、なんとなくわかるだけに二人の立場が非常に辛く見える。
自己嫌悪と愛情飢餓の中でもがくからこそ人をうまく愛せず、うまく付き合えない女性。
きちんと話し合いたいが溝は深まるばかりで、どうしたらいいかわからず、やっぱり自己嫌悪が爆発してしまうというやり切れなさ。
とにかく「やり切れない映画」なのだ。
そこにある程度の理解が及ぶかどうかが映画を楽しめるかどうかに関わってくる。

この映画に強い感想を持った女性がいるのなら、ぜひ語り合いたいと思いましたよ。


追記:
2012年3月14日
非常に鋭い視点のコメントをいただいたのでご紹介します。

今日観たのですが、非常に共感するところがありました。相手から与えられるものに対して性欲と愛の区別がつかない妹シシーと、愛することから自らを閉ざしてひたすら性欲を満たして日々をやり過ごす兄ブランドンは裏表の関係で、あからさまに異常な精神病患者などではなく社会に適合してそのあたりに普通に生活しているような人たち。愛と性欲の関係が現代ほど多様で混乱した時代ってなかったんじゃないかな。多かれ少なかれ皆シシーやブランドンのような当惑を抱えて生きているような気がします。(無記名)

実はこの手の女性は結構見てきて、昔精神が病んでいたころは、「メンヘラ」といわれるような女性とよく仲良くなった。
「愛される」ということに非常に敏感で、性的な関係が一度でもあると、そこに「愛情」や「恋」を見出してしまいのめりこむ。
一度「裏切り」のようなものを男に見出すと過剰に反応したり、とにかく相手の愛情が欲しく、執着がどんどんひどくなっていく。
「愛情」をくれない男にひどく当たったりするが、別れるとなると豹変してすがりつく。
これが男性になるとよくDVになり、別れるとき人が変わったように優しくなる。
そこまで精神が病んでいなくとも「愛情に手応えを感じない」という人間は数多くいるように感じる。
それこそ「愛情の種類を選び、自らも出せるものが限られてくる」という現代人の環境・スタイルや感情の間で成り立つ恋愛に多種多様な性癖も絡んでくる。
ストレスを多く抱えているし、性が商品化されてフラストレーションの捌け口とされている。
性と愛。
性の場合、本能だからどうしてもムラムラくるときがあって、そこに「愛情」など一切差し挟みたくないときもある。
だから「自慰」という手段があるわけで。
でもやはり人と接する快楽は自慰よりもいいわけですね。
そこに「愛情」を差し挟まないで、お互い「欲求の発散」と割りきれれば、これほど都合のいいことはない。
現代は性商品にあふれていて、性的な繋がりを持とうと思えばいくらでも持てて、「愛情」というものを紡ぎあって生きることの境目をきちんと持っていないと感覚的なものから境目が曖昧になる。
理屈ではわかっていても感覚的に感情が侵食されて境目が消えていくという現象が起こってくる。
そして性的なものに対して、ある種の抵抗が薄れてきている。
ネットではいくらでもあふれているし、若者にだってきちんとした性教育がなされていない。
日本でだって性がカジュアル化するという現象が起こっているくらいだから、この映画だって他人事ではない。
この手の映画は嫌煙されがちで、つい「ポルノ映画」みたく先入観が持たれてしまうけれど、本当にうまい脚本だなと改めて思いましたよ。

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