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2017.09.22 Friday
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2012.07.31 Tuesday



「レオン」を見たことがある人はレストランにルイス役のダニー・アイエロが出てきた時点で「あれ、続き? おっさん出世したな」なんて錯覚してしまいます。
何かレストランにいる姿がしっくりくるのはどうしてでしょう。
飲食店に勤めたことのある人は、映画を見ながら厨房の戦争状態とかお客で混雑するフロアの様子とか実感としてわいてきます。
食べているほうは混雑時よく待たされたり次の料理が来なかったりオーダー通ってないなど、よく経験したことがあるのではないでしょうか。
我慢の限界が来ても食べるまでは帰れない苛立ちとかね。

この映画、脚本がよく出来ています。
レストランの厨房の戦争状態と掛け合わせながらシナリオを、ほとんどレストラン内のみで展開していくところ「密室」とまでは言いませんが、それに近いサスペンスになっています。
一体誰が一番料理しているのかということですよね。
カメラワークも抜群でちょっとしたドキュメントタッチの構図が展開していくのも臨場感満点。

エドアルド・バレリーニはルイスの子供ウールとしてレストランの料理長として扮しています。
父に店を譲って俺に任せてくれとせがみ、実際ウールの手腕で繁盛店へとのし上がっています。
しかし料理の味が気に入らない父。
味覚って難しいですよね。
それぞれ微妙な好みがあって、結構小さい頃に形作られたり、長年親しんだ味覚に引きずられたりします。
母親の手料理が美味しかったら、その味を求めがちになりますよね。
うちの家庭はシンプルな和食が多いのですが、香辛料など混ぜていくと、あまり好んだりしません。
わりと偏食していないつもりでも、好んで食べるものは皆さんあると思います。
その「好み」が色んな「偏見」に繋がりがちなのは皮肉な事ですが、オーナーも文句を言いながら、店の切り盛りを息子に任せている辺り、やはり一番柔軟な視野を持っているのでしょう。

それにしても日本ってかなりの料理が楽しめて、国も段々増えていっていますよね。
そしてすべて日本風にアレンジするので、現地の料理とはだいぶ違う場合があります。
これほど多国籍な料理を楽しめる国も、なかなかないのではないでしょうか。
安いお店だとなかなかありませんが、プロの技や味を守っているお店はたくさんあります。
ニューヨークもまたしかり。
野望を持った人たちがこの街で出店しては消えていきます。
この映画でも激戦区のニューヨークで繁盛しているレストランなのですから、相当おいしいのでしょう。

エドアルト・バレリーニが「料理人には二つの側面があって、ひとつは野性的な一面と創造的な一面だ」と言っていたような気がします。
獲得するための野性。創造のための柔軟さ。
料理を作ることもそうですが、創造を洗練させていくというのは、野性的な貪欲さがないと見えてこないし見識も鈍ります。
毎日食べないと生きていけませんし、毎日の欠かせぬ行為の中に新しい見識や想像を植えつけられるって奥が深いです。

レストランの日常の中に練りこまれたストーリーを入れアレンジしていく。
一見地味ですが、見終わってみると満腹度ありの映画です。


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2012.07.31 Tuesday



クリント・イーストウッド監督主演の映画ですが、今回で役者は辞めると発表しました。
以後は監督業に絞るそうです。
今回のイーストウッドは元朝鮮戦争従軍兵士として頑固で嫌味ったらしでへそ曲がりという三拍子揃った世界どこでも嫌われるというお爺さん役です。
子供は結構いい暮らししてそうなので、特に父とは積極的に関わらなくてもいいし、出来ることならば大人しく隠居してもらいたいって思っているタイプ。

この映画では人種による差別意識など出ますが、アメリカでは黄色人種は基本かなり下に見られます。
アメリカ人にとってチャイニーズもジャパニーズもコリアンも区別できませんからね。
モン族という日本では聞き慣れぬ民族でミャオ族とも言うそうですが、主に中国に多く住んでいてタイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどの山岳地帯にも同じ言語を話す民族が住んでいるそうです。
アイヌ民族と同じように文字を持たない口頭伝承で歴史を伝えてきたようですが、現在民族は世界各国に散らばっていて「グラン・トリノ」の舞台であるアメリカにも当然います。
近所にいてもおかしくないアジア系の顔です。

ところで「グラン・トリノ」って何? って思いますけれど、これフォード・トリノのうち、 1972年から1976年に生産された名称なのですね。
イーストウッド演じるウォルト・コワルスキーはフォード社の整備士だった人で息子はライバル企業のTOYOTAのセールスマンで車もTOYOTA。
車を見るだけで苛立つ父の雰囲気がよく伝わってきます。

どうして題名が車の名前なのか。
おまけコーナーでも映画スタッフたちが、ここぞとばかりに車好きさを語っていますが、結構自尊心の強い男性って「自分を象徴するアイテム」にこだわったりします。
それが時計だったり、カバン、スーツ、洋服、アクセサリー、車や家など、愛着の出てくるアイテムで自分をさりげなく表現しようとするのですね。
そのコワルスキーの化身がグラン・トリノというわけです。
特に車を愛している人にとって、ピカピカに磨ききって酒を飲みながらうっとりと眺めるという満足感はわかる人が多いのではないでしょうか。

隣人のモン族の子供をイーストウッドが助けたことによって、たちまち異文化に巻き込まれ英雄扱いされ、仕方なしに関わることになっていくのですが、思ったよりもハートフルな人たちに意固地な心が開いていきます。

私はまだこれを書いている段階ではお爺さんではないのですが、後先短くなった時、自分の色々な経験、こうなって欲しくはないという経験から何を残したがるのだろうなと考えされられました。
自分は辛い思いをした。だから若い人たちを老婆心から否定する。
最初イーストウッドも、こういう感覚なのですが、そうではなくなってきます。
否定するのではなく、積極的に、そして前向きに自分の体を張って伝えて残していこうとするのですね。

最初タオ青年たるビー・ヴァンのへなちょこっぷりというか苛められ役に理不尽な印象を持ったりしますが、この青年をこそ評価すべきだとするコワルスキーの気持ちを考えると感慨深いものがあります。
なにせ、最初なんか「この若造が!」という感じで自分よりも年下の人馬鹿にしまくりますからね。
嫁の葬式に出てくれた神父さんまで馬鹿にします。
でも最後には若い人に対してきちんと敬意を払うようになる。
ギャングに狙われるタオ青年を何とかして自由の身にしてやりたいと願う。
この心境の変化は何故なのか。
どんな心境の変化からそうなったのか。
最後に何を思ったのか。
暴力的な連鎖を止めるのに一番効果的な解決策は何か。
自分が何者かの暴力を目前にした時、いかなる行動をとるべきか。
とっさに浮かぶものじゃありませんし、みんな悩みますよね。
やっぱりみんな戸惑うものですが、どこかで止んで欲しいと願っていることは共通なのではないでしょうか。
暴力は傍観では止まらないけれど、的になったとき耐えるだけではいけない、従ってはいけない。
ならば反抗か。
どうすればいい。
自分に置き換えると、どうしても自分を犠牲にしないで解決する方法を選んでしまいますよね。

他人に「自由を与える」というのは、一世一代の勝負になるほど尊く重い行為であることがよくわかります。

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2012.07.31 Tuesday


挿入曲の「コーリング・ユー」が一躍有名になった映画なのですが、最初コメディー映画かと思うほどの出だしです。
ハリウッドの映画かと思いましたが西ドイツの映画でした。

太ったドイツ人女性が旦那に車から追い出され砂漠をさまよい、カフェ兼モーテル経営の黒人女性がイライラガミガミ怒ってばかりで旦那を追い出し泣いているところに泣いているドイツ人女性が来るという、最初「なんだこれ」って思ってしまうのですが、この太ったドイツ人女性のマリアンネ・ゼーゲブレヒトが最後にはとてもいい女に見えてきて、黒人女性のキャロル・クリスティン・ヒラリア・パウンダーの印象がガラリと変わります。
実はどちらも多才すぎる女性だったのだということがわかります。

お話の筋としては一人の異種の存在が来ることによって、殺伐としていた環境がみるみる変化していくという、今ではありがちなパターンなのですが、でも見ていると「え、そこまでやっちゃうの?」というところまでやってしまいます。
普通の神経じゃそこまでやろうなんて気が回りません。
色んなところが綺麗になっていくし、人もいっぱい来てにぎわっちゃうし、心まで丸くなっていくような気がいたしますが、周囲が砂漠地帯というのが余計にいい味を出しています。
これが緑豊かだったら少し印象が違っていたかも。

好意を示しても嫌悪で最初は返されます。
好意を持ち続けることをやめずにいると、段々と時間とともに嫌悪が薄れてきて理解を示すようになるのですね。
特に人間って理解するうえでの共通点がないと、なかなか理解の入り口すら通ってくれませんから、異種の価値観や思想を持っている人間には最初警戒と嫌悪から入るのが当然なのではないでしょうか。
特に男性はよくわかると思いますが、自分の散らかっていた部屋が突然綺麗に整理整頓されていたら、あまりよい気分はしないのではないでしょうか。

しかし心が苛立つのは自分の中に許せない感情があって、どうしても自己処理ができないでいるためであり、常に苛立っていたり怒っていたりする人は魅力的ではありませんし、その裏に涙や他人に理解されない気持ちがあったとしてもなかなか理解されるものではありません。
それでも愛してくれる人がいたとしたら、心から感謝しなければいけませんよね。
黒人の女性はブレンダ、ドイツ人女性はジャスミンという名前ですが、ブレンダの心の扉をノックし続けてくれるジャスミンは本当に女神のような女性です。

そして徐々に近づいていくことによって芽生えてくる様々な愛情やシャイな感情など、見終わって、久しぶりによい映画を観たとも感じます。
感動は押し付けられるものだとしらけますが、見終わってみるとじんわり来るというのがよいですね。
心の砂漠が潤った夕焼けに染まる様子が感じ取れますよ。


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2012.07.31 Tuesday


ジョニー・デップ主演の映画なのですが、既に題名からして「公共の敵」ですから、中身を少し見ればわかりますけれど銀行強盗たる彼らには好意的ではない題名です。
この題名は当時のFBI長官の指名から取ったのですね。
舞台は1933年、大恐慌時代になります。
昔の映画で同じようにジョン・デリンジャーを題材にした『デリンジャー』という映画もありますが、こちらはデリンジャーよりも、どちらかというと警官のパーヴィスの「正義の味方!」感が強く出ているような気がします。
しかも貫禄があり婚約者がいるにしては年を取り過ぎているような気もいたしました。
そして警官以外はみんな金にずる賢いです。
そこが一瞬コメディーにも見えてしまいますが、そんなものなのでしょうね。

ジョニー・デップの方はスタイリッシュに出来上がっていて、さすがマイケル・マン監督とも言うべき人物の表情の映し方が冴え渡っています。
今回、どうしてこの二つの映画を並べたのかというと当然見比べもあるのですが『デリンジャー』の方は、どちらかというと大恐慌の中でも好き勝手生きるならず者の風体が前面に出ています。
金持ちから金を奪っても悪くない。あいつら楽ばっかりしやがって。みたいな雰囲気が庶民から出ているのも特徴かなと思いました。
いつの時代もお金を持って悠々と暮らしている人間が酷い目に合うと、貧乏人はスカッとするのだということがよくわかりますね。
特に銀行のお金は盗っても、銀行にいる人間の財布には手をつけないところが、人々の憎しみを受けることを免れていたようです。
しかしまあ、アメリカって凄いね。
みんな銃持っているからやるかやられるかの世界。

大体悪役が出てくる映画で、悪役がバリバリと幅を利かせて最後には生き残るなんて映画は少ないほうだとわかるでしょうし、この映画は史実を元にしているので、どうなったかということは予想がつくだろうと思います。
『HEAT』の時もそうでしたが、マイケル・マン監督の作品には「短気を起こして爪弾きにされる悪党」が必ずいます。
短気は損気ですね。
『パブリック・エネミーズ』は愛に生きるデリンジャーの姿が映し出されています。

重要なのがデリンジャーの恋人のビリーです。どちらの映画にも当然出てきます。
女性の心理としてはどうなんでしょうね。
映画ではかっこいいから惚れるのでしょうが、実際には孤独な環境同士、心理的に意気投合したような気がしてきます。
インディアンの混血となると差別も少なからずあったでしょうし、ましてや大恐慌なので楽に生きてこれたとは思えません。
誰も私の理解者はいない。そんな孤独感は持っていたように思います。

題名は『パブリック・エネミーズ』ですが、追う側と追われる側を中立的に見ているので、追う側のパーヴィス役のクリスチャン・ベールも格好良く描かれています。
私はパーヴィスの心理のほうに興味を持ちました。
どうして最後、そうしてしまったのだろう。
それを考えるとパーヴィスはデリンジャーに好感を持ちすぎていたのかもしれません。
宿敵ではありますが、敵として愛していたのかもしれませんね。
敵に好感を抱く正義の味方って結構いますよね。
何故でしょう。真摯にぶつかり合う中で、分かり合える何らかの感情が出てくるのでしょうか。

『デリンジャー』のウォーレン・オーツは自尊心の塊ですが、『パブリック・エネミーズ』のジョニー・デップは度胸がありすぎるところを見せてくれます。
両者の共通点は「脆さ」でしょうか。
冷徹な感じは人情的な行動で緩和されてしまいます。
放っておけない男性とは、こんな人なのでしょうね。
二人とも気に入った女性を強引に奪っていくのは同じです。
魅力的な男性に身も心も奪われるというのは、そうありませんけれど、危ない匂いのする人に惚れてしまうと破滅が待っているというのはお決まりのようです。

テンポよく引き込んでくれる流れは、さすがの作り。
見比べるとより味が出てきます。


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2012.03.12 Monday


久しぶりに頭をフル回転させました。
そして何年かぶりに劇場で見たいと思った作品。
映画を見て一つ気がついたのは「ああ、ハリウッド映画ってなんて饒舌だったのだろう」ということだ。
饒舌な映画というのは、とにかく喋る。
シーンを説明するために、何が起こっているのかを観客に考えさせないように、とにかくスクリーン全体を通して「喋り続ける」。
だから売れ筋のハリウッド映画というのは、考えなくてもいいし、余計な思考回路を使わなくていい。
だからこそ、この映画を見て、人により様々な解釈を与えるアプローチがとても久しぶりに思えた。
ああ、こういう映画も出てくるものなのだな、と感動した。

内容は成人もの。
最初からマイケル・ファスベンダーのイチモツが出てくるような裸のシーンがドーンと出てくるし、セックスシーンも多く含まれている。
この映画の一番特徴的なところは「饒舌ではない」というところだ。
例えば「この台詞が成り立っているのはどうしてか」「このシーンが成り立っているのはどうしてか」という仕掛けが随所にあり、そこに観るものの様々な憶測と解釈を生む。
饒舌なハリウッド映画に慣れている人は見ても、やたらとセクシャルなことしか出てこないように思えるかもしれない。
そして「疑問を持って初めて観客として成り立つ映画」なので、様々なことが明示されず、解釈できなければつまらないと思う。
何が起こっているか饒舌には説明してくれない映画なのだ。

マイケル・ファスベンダーが演じるブランドンは「セックス中毒」とあるが、部屋でポルノビデオを見たりビデオチャットセックスもするし部屋だけではなく会社でもパソコンの中はポルノ映像でいっぱいでトイレで自慰をするくらいだから相手がいなくとも「性的な刺激」がないと、どうしようもないような主人公。
この映画でヴェネチアの男優賞をとっている。納得。
私は男性だったのでちょっとわかる部分があるのだが、男性が「過剰なセックスをしたがる」というのは多くは「フラストレーションを抱えている」ことがあげられると思う。
フラストレーションの発散の手段として性的な刺激を欲しがる。
だが埋められない。
問題の根本を解決しているわけではないから。
部屋に上がり込んでくるシシー役のキャリー・マリガンも宣伝だけ見たら「娼婦役」かと思ったら実の妹だった。
そして一番重要な点はシシーを最後まで肉親として扱うというところだ。
これがセックスをする対象になってしまったら何がなんだかわからなくなって、一気にこの手のセクシャル映画がやりがちなB級C級への脱落を果たしていたところだった。
このシシーもリストカットの痕があるのだが、やはりそういう細かなシーンを見ていくと「この二人の子供たちが育ってきた環境」というのもうっすら推測できるし、「傷持ちであり、兄とは反対の位置にいる不安定な身分の妹」から「仕事部屋を与えられるほどのオフィスに勤めていて、自分の部屋も持っている注意力深いできた兄」を見ると、実は同じ「傷持ち」なのではないか、ということもうっすら浮かんでくる。
そうなると途端に「なぜ性的刺激が必要なのか」ということに切なさがつきまとう。
「同じ傷」とは何か。
繋がらないようで裏で繋がっているのは何か。
ここらへんは観客の解釈の多様性が生まれてくる。

全体的に映像が綺麗で透明感のあるシーンに彩られていくが、男として見ると「プライベート空間に入ってきた肉親の気まずさ」や「やたらと動画を探したり、女性を性的な対象として舐めるように見る」という主人公に感情移入してしまう。
妹に自慰を見られて絶望的な気持ちになり、お前の家じゃないのだから出ていけと切れたり、その怒りの勢い余ってポルノ雑誌や毎日動画を見ていたパソコンやアダルトグッズをすべて捨ててしまうとか、妹が自分の家で上司とセックスしだして、いたたまれなくて走り出してしまうというやり切れなさ、フラストレーションの発散の場を失い苛立ち、妹は性的な対象として見ないという、きちんとした区切りの中で身の置き場をなくしていくような心の乱れがよく出ていた。
何せ自由にコールガールを呼べたのが、妹がいるから全然呼べなくなるのだしね。

同じものを持っていながら対照的な二人。
部屋は小奇麗にしているが、心まではどうなのだろうとか考えてしまうし、とにかくいろんな意味で「危ない」と思ったのは「性的な嗜好」で「これよくアメリカで問題にならなかったな」という人種的なシーンまで入っているので刺激的と言えば刺激的だった。
主人公が最長で女生と四ヶ月しか付き合ったことがないとなると、何かふっと思い出すことがあった。
というのは、以前私自身「恋愛の過程」が好きで「好きになってもらったら興味を失う」という変な癖があり、「好きでいられる」ことが重かった。
人から好かれるということに違和感があったし、本当に好かれているのか疑心暗鬼に勝手に陥るということもあった。
人を愛せない人間はだいたい思春期などの多感な大事な時期に何らかのトラウマを負っていることが多かったり、愛された経験が圧倒的に少なかったりする。
リストカットをしなければいけない心理も、なんとなくわかるだけに二人の立場が非常に辛く見える。
自己嫌悪と愛情飢餓の中でもがくからこそ人をうまく愛せず、うまく付き合えない女性。
きちんと話し合いたいが溝は深まるばかりで、どうしたらいいかわからず、やっぱり自己嫌悪が爆発してしまうというやり切れなさ。
とにかく「やり切れない映画」なのだ。
そこにある程度の理解が及ぶかどうかが映画を楽しめるかどうかに関わってくる。

この映画に強い感想を持った女性がいるのなら、ぜひ語り合いたいと思いましたよ。


追記:
2012年3月14日
非常に鋭い視点のコメントをいただいたのでご紹介します。

今日観たのですが、非常に共感するところがありました。相手から与えられるものに対して性欲と愛の区別がつかない妹シシーと、愛することから自らを閉ざしてひたすら性欲を満たして日々をやり過ごす兄ブランドンは裏表の関係で、あからさまに異常な精神病患者などではなく社会に適合してそのあたりに普通に生活しているような人たち。愛と性欲の関係が現代ほど多様で混乱した時代ってなかったんじゃないかな。多かれ少なかれ皆シシーやブランドンのような当惑を抱えて生きているような気がします。(無記名)

実はこの手の女性は結構見てきて、昔精神が病んでいたころは、「メンヘラ」といわれるような女性とよく仲良くなった。
「愛される」ということに非常に敏感で、性的な関係が一度でもあると、そこに「愛情」や「恋」を見出してしまいのめりこむ。
一度「裏切り」のようなものを男に見出すと過剰に反応したり、とにかく相手の愛情が欲しく、執着がどんどんひどくなっていく。
「愛情」をくれない男にひどく当たったりするが、別れるとなると豹変してすがりつく。
これが男性になるとよくDVになり、別れるとき人が変わったように優しくなる。
そこまで精神が病んでいなくとも「愛情に手応えを感じない」という人間は数多くいるように感じる。
それこそ「愛情の種類を選び、自らも出せるものが限られてくる」という現代人の環境・スタイルや感情の間で成り立つ恋愛に多種多様な性癖も絡んでくる。
ストレスを多く抱えているし、性が商品化されてフラストレーションの捌け口とされている。
性と愛。
性の場合、本能だからどうしてもムラムラくるときがあって、そこに「愛情」など一切差し挟みたくないときもある。
だから「自慰」という手段があるわけで。
でもやはり人と接する快楽は自慰よりもいいわけですね。
そこに「愛情」を差し挟まないで、お互い「欲求の発散」と割りきれれば、これほど都合のいいことはない。
現代は性商品にあふれていて、性的な繋がりを持とうと思えばいくらでも持てて、「愛情」というものを紡ぎあって生きることの境目をきちんと持っていないと感覚的なものから境目が曖昧になる。
理屈ではわかっていても感覚的に感情が侵食されて境目が消えていくという現象が起こってくる。
そして性的なものに対して、ある種の抵抗が薄れてきている。
ネットではいくらでもあふれているし、若者にだってきちんとした性教育がなされていない。
日本でだって性がカジュアル化するという現象が起こっているくらいだから、この映画だって他人事ではない。
この手の映画は嫌煙されがちで、つい「ポルノ映画」みたく先入観が持たれてしまうけれど、本当にうまい脚本だなと改めて思いましたよ。

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