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2024.04.27 Saturday
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2017.03.03 Friday



とある人から「知り合いが直木賞を受賞したから読んでみてくれ」とあり、購入した。
「ちょっと前はぶらぶらしててさ」とか、「ペンネームも山東省からきているんだよ」と言っていたのでどんなものかと読んでみると、久しぶりに泥くさいような小説だと感じた。
若さの力というか暴力の力というか、随所に出てくる爆発的な力が主人公を突き動かしていて、中上健次の小説のような一触即発のピリピリした雰囲気が漂うが、文章は所々ユーモアや恋愛があったりして、最初の方で殺された祖父から「ミステリー小説なのかな」と身構えた気持ちが、すっと融解していった。
小説は実体験を元にしていて随分と変わった人生を歩んでいるなとも感じたけれど、結局はルーツを探す人生であり、「血」というものへの抗いがたい強き引力であり、自分は何者なのだという誰もが人生では一度は考えるような疑問を突き詰めたものだ。
ただ「血に関わる因縁」が人の深い罪や業に関わってくるとなると誰しも躊躇するようなものだけれど、運命なのか、見知らぬ力に導かれているのか、色んなことがすっと最後の瞬間に繋がってくる。
持って生まれた因縁が不幸を作ったり、意図しなかった道を作ったり、自分もよく感じることだけど、まるでバラバラで何も繋がらないかのようなことが、すっと一まとめになって目の前のイベントを作り上げていることを感じることがある。
受賞直後に購入して読み終わってはいたのだけど、ずっと感想を書くのを止めていた。
何か小説から突き上がってくる圧倒的な感情や暴力性に心が引きずられているのがよくわかったからだった。
いわば、読者の心を揺り動かす力が物凄く強い。
台湾、中国本土、日本と行き来するわけだけど、この舞台が日本だったら、もっと違った、陰気臭いような小説になったのかもしれないけど、そこは中国の広さというか、主人公の突き抜けた直情さと人間らしい生身の感情が色んなものと純粋にぶつかって昔のスポーツマンガのような爽快な感じさえ漂うところが、読んだ後も残り続けた。
蒋介石が亡くなった直後に祖父が殺されているため、当時の台湾の事情なども書かれていて、余計に泥と血が香っているけれど、私小説っぽい要素もあるため純文学としても読めるけれど、展開が破天荒なのでエンターテイメント感溢れる直木賞受賞は納得の一冊になっておりますよ。

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2015.07.18 Saturday


書店に彼の本がいくつか並んでいたので手にとって読んでみると、だいぶ本作品では書きなれてきた感が出てきていた。
最初の一ページを読んだだけで、この人読書家なのかなと勘ぐり、知っている人に聞いてみたが、やはりそうだった。
文章を沢山読んでいて、小説を書く、この世界を書くという気持ちはよく伝わってくる。

内容は師弟関係になった芸人同士のやり取りがメインになる。
神谷という主人公徳永がほれ込み師匠とした人との人間模様なのだが、構成として面白いのは徳永が劣等感丸出しで神谷という存在を面白い、この人には追いつけないし、追い越せないと見ていたのが、実は結構似たような力関係で互いが成り立っている。
正直芸人じゃないと書けない内容だなと感じた。
というのも、読み手を意識してウケを狙うわけでもなく、つまらなさも面白さも含めて芸人同士でしか成り立たない会話。
芸人という立場でしかありえない、わけのわからない会話が次々と出てくる。
その淡々とした感じが日常性をさらに強調していたし、ここに少しでも意図的なものが出てくれば、作品としてかなり白けたものになったに違いない。
徳永の心情描写から透けて見えてくる神谷という人間の面白さ、裏を返せば滑稽さがよく表現されていて、昨今出版されている本で抱く「芸能人だから」という隔たったイメージは一切持たず好印象だった。
特に喜劇と悲劇は、ほとんど紙一重の領域にあるが、この作品はお笑いという視点を通し、紙一重のバランスを保っている。
芸の世界は見栄も張っていないと、なかなかやっていけないのかもしれないが、抱いた嫉妬や怒りや無力感や憧れというものは、当人たちの立場の移り変わりを見ていけば、充分に読み取れるし、芸に生きる人間の滑稽さは、よく出ていると感じた。
泥臭いだけに生々しく、「小説」というものは描けている、という感想だ。

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2014.06.28 Saturday



 先日NHKのニュースで出たことを知り、完成版とのことで第四章が追加されて40年ぶりにお目見えとのことで急いで書店に行き購入した。この本を最初に読んだのは確か20代後半だったような気がする。
 題名からは、なんか動物ものだから、ほのぼのしてる童話か何かじゃないか? だなんて思っていたら違いました。悟りの書みたくなってる。
 というのもジョナサンは「飛行」や「スピード」をひたすら追求するカモメになっていく。一つ芸を追及することによって単に「生きる」ことに必要な「餌をとり生活していく」という次元からはるかに別の価値観を得ていくことになるのだが、それだけにカモメの群れから追放されてしまう。
 その一芸を追求するという行為の先に肉体をも超えて行き開眼する様は「これはいかにすれば悟りを得られるのか」を書いた小説なのではないかと、当時は思っていた。一つの世界を純粋に練り上げ純度を高め、目で物を見るのではなく、世界と一体となった心の目で時空を見渡す。確かにここまでいってしまうとそれは「カモメ」とは呼べない存在になってしまう。
 ニュースでも言っていたが、肝心の第四章は、第三章で終わっていれば「ああめでたしめでたし」という印象しか持たなかったものが、ジョナサンがいなくなり神格化され、行為から思考へ切り替わり、思考のために思考を練り上げ、思考を植えつけるための約束事やしたきりまで出始めるという、ニュースでは「堕落」と言っていたが所謂「現実不在の堕落思考の様相」が描かれている。
 ほとんど全ての言葉というのは「行為」を中心にし、体の中のリアリティを通して発信されているはずだ。さもなければ、個人にとってそれは単なる「情報」でしかなく、体験談でも得た知恵でもなんでもないのだ。知識を得て体験もせぬまま情報レベルでそのまま井戸端で噂話をするかのように語る人間はたくさんいるが、常に情報のオリジナルであり続けることは難しい。
 何故なら現代は情報が溢れていて、さも体験したかのように緻密に脳内に情報を蓄積することができるからだ。だから、我々は知らないことでさえ情報を共有して知った気になっている。
 そして情報を我々が確かに身近なものとして共有している、現実のものであるとするにはシンボルが必要になる。何か象徴的な形となるものが必要になってくるのだ。だから我々が思考を停止させる時必ずキーワードで話し出す。そのキーワードが何を示すのか、というのは、象徴物に印象付けられたイメージや先入観からしか考えられなくなる。
 そして行為は歪められ、思考は堕落していくのだ。
 これは別段難しい話ではないのだ。行為によって出しかオリジナルの情報は手に入れられない。知識は知恵にならないし、情報が真実かどうかも確かめることはできないのだ。世界を見つめることは、歪んだ心を捨て去り自由を得る必要がある。心の中からしがらみを取り去る必要があるが、いかに自由になったとしても自由になろうとしても、しがらみや群れを求めだすのが人なのかもしれない。
 この小説は多様な捉え方がある。経済には「神の見えざる手」があるというが、人間社会にも荒む時期や栄光の時期が繰り返されている。それはきっと個人の利益を考える人間の腐敗であったり、はたまたその腐敗に対する反発的な意思で利益を考えたりの繰り返しなのかもしれないとも考えさせられる。
 しかし我々の社会がどうあれば健全でありうるか、という議論はしばしば「行為」によって変えられるのではなく「情報」によってのみ歪められることが多々出てきている。
 第三章までの話は40年前。高度成長期の終わり頃で、その時期には第四章は時代に似つかわしくなかったとニュースで言っていた気がする。そして今になって第四章が追加されたわけだ。
 これは何の運命か何の因果か。あの頃二十歳で読んだとしても、もうその人は60ぐらいになっているはずだ。その人たちは何かを感じるのか、もしくはそういう長老たちよりもむしろ、今の若者にこそ再度問いかけているのではないのか。
 文章も簡単で一読の価値はある。ぜひお勧めしたい。

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2012.08.13 Monday



作者はこの小説を未完にして自殺した。
ゆえに様々な「もしかして」が思い浮かぶ。
内容は「海炭市」という架空の都市に住まう人々が各短編の主人公となり、冬から始まり夏あたりで止まっている。
第一章第二章とあり、つまりは冬と春だ。
20年も前の作品だが、渋い。
小説らしい小説といえばいいのだろうか、今のエンターテイメント志向の小説とは違って市井の様々な年代の人間の生活を細かに描写している。
きちんと人間模様が描かれているが、このような架空の都市を作り出して様々な人間を主人公としている作家の一人に時代小説家だが「海坂藩」を描いた藤沢周平がいる。

どこをモチーフにしているか明かされなくとも、北国らしいということがわかるし、特に路面電車が出てくるので絞込みは容易に済む。
電車はどこにでもあっても、少ないのが路面電車と地下鉄とモノレールとトロッコだ。
この四つの電車のどれかが出てくる小説はモチーフとしている場所が絞りやすい。
もったいぶることもないので書くがモチーフとしている都市は函館市だ。

通常、北国の人間は最初は無口、打ち解けると喋り出す、というイメージがある。
雪国ならではの極寒で耐えしのぎ、吹雪の中でひたすら凍えながら立ちすくみ我慢するような、そんな雪のイメージが付きまとうからだろう。

私が鹿児島に行った時にも言っていたが都市部の人間において、地方特色の人間の癖というのはなくなってきている。
というのは、若い人たちが入ってきて、都市をとった人たちが亡くなっていくことにより、都市部では中和されてきているというのだ。
私は札幌に住んでいるが、他の都市部と比べて何が違うのか、人の面で言えと言われれば少し困るところがある。
注意深く探さなければ見えてこない。
環境によって生まれてくる人と考え。
それが生活なのだろうし、それが都市の特色、市井の人の癖なのかもしれない。

『海炭市叙景』では仕事に就き、そしてその仕事を背景にして物語が進むことが多い。
もちろん仕事は生活の一部であるし、人生を支える大事な点であり、その人物のアイデンティティでもある。
生活をしっかりと文章の中に練りこみ小説に盛り込む視点は、派手さがないが、地に足がついているだけに描写も難しい。
というのは、どうしてもしっかりと書いていかなければ生活の部分だけが描写として浮いてきてしまい話の筋にリンクせずに余計な分量として贅肉となる。
配分のバランスがきちんとしているから、違和感なく「生活する人」が生きている。

全体的に陰鬱、救われもしない、幸福とも言いがたい、曇り空のような雰囲気が漂う。
だが、「もしかしたら」という想像が生まれてくるのは、この小説が「未完」だからだ。
最初に違和感を持ったのが、出だしの二編で、事件を共有している。
しかし進むに連れて事件は共有されなくなってくる。特に二章目はまったくのバラバラの物語だ。
まだ夏と秋が残っていて、作者はその二つの季節、残り二章を書かずに亡くなった。
この夏と秋の二章に何を書くのか。
もしかしたら、前半の登場人物を脇役とさせ、話を救いのあるものにしたのかもしれない。
私がそう考えるのは、全編この調子では冗長過ぎてだれるからだ。
何のために小説を書き始めたのか、人の生活を書き始めたのか、きちんと考える作者だけに一辺倒では終わらなかったはずなのだ。
そして絶望もせず不幸だけでは終わらず、ささやかな幸福を願い、日々の小さな幸せを得ながら生きていこうとする人間の姿をよく理解しているだろうからだ。
書き方は非常にうまく、大人になってようやく、住まう人々の腰の座ったたたずまいが理解できるようになる。
中年ぐらいの方がようやくわかってくるような小説なのではないかと思う。

書き方がうまいと思うのは、タイトルのうまさ、締め方の秀逸さ、物の絶妙な使い方などがあげられる。
読み終わり、タイトルを見て考えさせられる。
なるほど、20年経っても根強いファンが2010年の映画化までこぎつけるほど残っているというのもうなづける。
この小学館から出た小説も長き時を経てここまで来ているのだから、作品の運命は皮肉だと感じるし、私が当人だったら、などとあれこれ考える。
無数の作品の中で、佐藤泰志のしかも『海炭市叙景』に出会える確立など、クジを引き当てるくらいになる。

今はエンターテイメントばかりの小説が溢れる中、小説らしい小説を残すのは非常に難しい。
ほとんどボランティアのような気持ちでやらなければならなくなる。
もしくは市町村をスポンサーにつけるか、人々を味方につけるかしなければ立ち行かなくなる。
小説家のアプローチの仕方も現代では変化した。
しかしどれほどエンターテイメントが好まれようと、このような小説は滅びて欲しくないと思うし、どうか残していきたいと願い行動するのが文筆家、いや、人をきちんと見つめる小説家の性分のような気がする。
未完ではあるが、読みがいのある作品に久しぶりに出会えて、ありがとうと思えたことが、何よりもの分け前でした。

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2011.07.15 Friday



社会派ミステリーとして、何度もリメイクされ映像化されている松本清張の代表作である。
初版が1960年だから、私の親が生まれた年と言ってもいいくらいの開きがあるだけに古さが浮かぶだろうが、そうでもない。
すらすらと読みやすい文章から、携帯電話もインターネットもなかった時代の忍耐力がうかがえる。
自分としては今西刑事が俳句を読むのだけれど、下手でもつづっていく俳句の登場がもう少しあると当時の風景がありありと浮かんだのではないかと思う。
これを読んでいくつか思ったことがある。
当時としては当たり前の風景が今となっては貴重な資料となりえる、ということである。
だからこそ、方言や今となっては見られなくなった病気のことなど、しっかりと記述しておくことで、その当時の風土や風景がいかなるものだったのかが伺えるのだ。
このことは年代が経ってみないとわからないことではある。
いくつか、ちょっと強引なところもあるが当時のトリックとしては斬新極まりない。
とある機械についても、ヨーロッパでフーリガン対策か何かで用いていたが結構大型、車の上につけていて50mくらい先の人にあてていたから大きいのだろうが、やはり結構な威力を出すには大きな装置が必要になっていた。
昔はどうだったのだろうね。
ただ、松本清張の短編などを読むにあたり、主人公の推理や勘が超人的に冴えている、もしくは執拗に考え抜くところは、作者本人の勘の鋭さ、疑問の持ち方がありありと反映されている。
後半になって、神が降りてきたように事件を述べていく。
ここら辺の文学性の欠如は解説でもちゃんと書いてある。
社会派ミステリーと呼ばれるようになったのも、いわゆる差別となった病気のことや、今の日本でもそうだけれど出世に傷がつくことを恐れる日本人の出世意識が強く出てきているからだ。
経歴に傷がつくのを日本人は恐れているし、経歴に傷がついている権力者を日本人はあまり認めたがらない風潮は強くある。
だいたい大人になると他人の優しさを多少冷めて受け止めてしまう感覚になっていくところ、とても寂しいことではある。
特に過去に対して深い傷があったりすると、人間を根本的に信用していないし、信じられないし、だいたい信用したら裏切られるという、なんとも蟻地獄のような目にあうのは、別に小説だけの話ではないのだ。

ところで方言が最初のトリックになっているところ、方言について考えさせられる。
これから方言ってどうなっていくのだろう、と。
多少は残っているが、この小説が書かれた状況からはだいぶ薄まってきていて、聞き取れないような方言を話す人は若い人ではいなくなってきている。
「私でもおじいちゃんおばあちゃん何言っているかわからない」というのだから、方言もまた資料上の記録にしか残っていかないのではないか、という時代の流れを感じながら小説を読んでいた。
前半戦汗水垂らして地道に動いていく今西刑事や周辺人物の人間味が、後半になって薄まっていき、前半の生き生きとした人間模様のあり方が多少薄味になっているところ、書き方の難しさを教訓として突きつけられる作品でもある。
また長編になればなるほど作者本人が仕掛けたトリックに振り回され、大きな欠陥を生むことになることなど、まるで犯罪者が整合性を取ろうとして逆に不自然になってしまうという創作ならではの難しさもこの本には存在している。

芸術家や批評家が出てくるけれど、これらの存在は内省することで客観性を保っていないと本当に独善的な世界を積み上げて、そこに固執し続けなければならないという事態を招く。
男の人は、本当に力の上下関係に弱い悲しい生き物なのかもしれない。

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