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2011.01.31 Monday




ああ、買ってから数年は積んでいた記憶が。
いつ買ったんだろう。
あったのは知っていたし、読もうとは思っていたものの、後回しになっていた。

内容は二つの話が平行線上に動いて二つの世界をつなぐ人物が世界をつなげている。
猫と話ができる老人と、15歳の家出少年の旅物語に最初は読めるだろうが、最後はスタンリー・キューブリック作品みたく、どこか宇宙に行ってしまうのではないか、未知との遭遇があるのではないかと、ハラハラして読んでいたけれど、ここは村上春樹読者が「やっぱり村上春樹ですよ!」というような内容で終わる。

読んでみて、強く印象に残ったのは「これは童貞小説だな」と。
読んだ後どうしても「僕」といいたくなるのは、やっぱりこの「春樹節」が効果覿面に染み込んでくるからなのだろうが、やっぱり僕は村上春樹が今は少し苦手なのである。

村上春樹文学に触れた時、特によく感じるのは「ぼやけた曖昧さ」である。
この妙にはっきりとしない感覚がなんとも嫌で、「それはなんなの?」と言われてもうまく説明できない。
つまり、たとえば作者の立場として「僕はこうだと思うし、こうしたほうがいいし、こうあらなければならないと思うんだ。でもそれは僕の考え出し、君は君だし勝手にすればいいんだよ。これは僕と世界の問題なのだから」という距離感。
そんな距離感を取りながらも、さらに「僕と世界は繋がっていて、世界と君は繋がっているのだから、僕と君の関係は無関係とは言うことができないんだ」という、このあいまいさ。
「ああしろ」「こうだ」「あっちへいけ」というメッセージがあるようで、ぼんやりとにじんでいく。
それはまるで、インクで書かれた文章が水につけたらぼやけていくような、すりガラスの向こうで裸らしきものを見ながら想像するような、もどかしさがある。

村上春樹文学を読む時に、みんな深読みをする。
それは春樹の文章そのものに、あらゆる「メタファー(隠喩)」があるからに他ならない。
その散りばめられたメタファーを繋ぎ合わせてパズルのように読者は深読みするのだけれど、ネット化、グローバル化、なんでもよいけれど、この繋がっているようで繋がっていない、でもそれらは世界に存在しているという世界観こそ、僕らが世界を再認識する上でとても大事なことで、でもそれは感じるだけで終わってしまうような、そんな「感触」が残るために春樹の文章をみんな深読みするのだと思う。

僕はこの小説を「童貞小説」だと言った。
僕は男なので女性のことはわからない。
でも「童貞」というのは、リアルのセックスをしていないから、あれこれと女性とのセックスのことを想像する。
そのエネルギーは様々な方向へと飛び火して積み上げられていく。
それは、あたかもあらゆる「メタファー」が存在しているかのように、辞書の中の卑猥な単語に興奮を覚えたり、夏の薄いブラウスの中に透けた下着の色を見て興奮したり、アイドルの写真の水着姿の胸の大小や、股間や太もものあたりに妄想が膨らんで、夜な夜な淫らなストーリーを作っていくという、無限の想像力に満ち溢れている。
少なくとも、淫らなことまではいかなくても、片思いをしたら、純粋に頭の中でデートを楽しんだり、こうだったらいいのに、という純愛に浸りきったり、「童貞」は「体験していないからこそあらゆる方向に向かって想像を膨らませることができる」という「無限のエネルギー」を持っている。
しかし、これがセックスを体験したら違う。
嫌がおうにも現実に直面するし、傷もつけられるし、思っていたものよりか遥かにかけ離れていることは避けられない。
自分の望んだようにセックスできたり恋愛を進めていくことはできないのだ。
もし、そうなってしまったら、もう「童貞のように妄想を膨らませることはできない」。
いくつかあった力の進行方向も、現実の中でできた「傷」や「現実感」そのものに塞がれ、エネルギーの方向性が徐々に定まってくる。
それは生きていくうえで避けられない体験であったり現実感であったりする。
僕らは一度「門をくぐって」しまえば、もう門をくぐる前の景色に戻ることはできない。
それは「童貞が現実を知ってしまった」かのように。
僕たちは「生きる」という行為を通して常に何かを犠牲にして、そして何かを得ている。
この選択した現実はどのように誤魔化そうと避けられないことだ。
その犠牲の出し方や、現実の選び取り方が、僕らの人生そのものに影響していく。
『海辺のカフカ』は、『童貞喪失』の話でもあり、『門』でもあるように思う。
だから思春期の人たちに絶大な人気を得るものだと思うし、誰もが通る道だと思うし、そして「いつかは卒業しなければならないもの」だと思う。
ある日僕らが卒業アルバムを開いて、あの時はあんなこともあったし、こういう風に生きていた、でも、もうここには戻れないのだよな、という現実を積み重ねてきた自分と確かに世界に存在しているものへの対比をしながら、時には今生きている自分を戒めたり、時には懐かしさに浸ったり、また何もかも知らないかのように「あの頃の何も知らなかった自分を思い返しながら世界と自分を見つめなおす」という作用が、この小説にはあると思うのだ。
そしてその時、はっきりと自分が何を「喪失」したのか理解する。
この物語の中にはメタファーは確かに強く存在している。
しかしそれらのメタファーをどう取るのかは、すべて読者にゆだねられているもので、それだけにあいまいでぼやけている。
なんとも言えない御伽噺のような世界観は村上春樹ワールドでしか味わえないものだけれど、僕にはどうしても、あいまいさゆえの苦手意識が取れないんだ。

でも、村上春樹の影響力は私が「僕」で語りたくなるほど、恐ろしく強いものであることは間違いない。
この曖昧さとぼんやり残る感触が、「また読みたくなる」という村上春樹の魔力でもあるのだろうが。

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